電力利用の多様化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 02:19 UTC 版)
前述の通り、信濃電気の電灯数は1919年に10万灯に達していたが、そこから2年半後の1921年(大正10年)には倍の20万灯に到達した。一般電力供給も同時期に3000馬力台へ到達している。電灯数についてはその後は増加率が鈍化するが、1925年3月期に25万灯へ到達する。一方の一般電力供給については引き続き増加をみせ、1927年3月末には6007馬力(約4,480 kW)を数えた。また1910年から続く長野電灯に対する電力供給は1925年3月の契約更改に際して従来の1,000 kWから1,500 kWへと供給高が引き上げられた。5年後の1930年末時点では、長野市内での長野電灯に対する供給はさらに1,000 kW増の2,500 kWとなっている。 1920年代に入ると信濃電気管内にも電気鉄道が出現した。まず1921年6月、上田地域南部(千曲川南側)の交通機関として上田温泉電軌(会社は現・上田交通)が開業する。同社に対する信濃電気の供給電力は当初200 kW、上田地域北部への路線も開通した後の1930年末時点では550 kW。次いで1924年(大正13年)3月、上田と丸子町を結ぶ丸子鉄道(1918年11月開業)が電化開業した。同社に対する供給電力は1930年末時点で300 kWである。北信地方においても1926年1月に河東鉄道(年内に長野電鉄と改称)が電化開業した。同社では電化開業にあわせて沿線にあたる信濃川水系樽川に樽川第一発電所を建設、後に樽川第二発電所も追加して、総出力1,580 kWの自社水力発電所を持った。両発電所からの送電線は信濃電気樽川発電所を起点とする送電線に合流しており、長野電鉄は形式的には信濃電気からの受電(1930年末時点では1,100 kW)を鉄道の電源とする。 1920年後半になると、信濃電気から受電し工場を操業する化学工業会社が2社相次いで出現した。一つは、高橋武太郎が経営する大正電気製錬所(現・信濃電気製錬)である。信濃電気からの受電による銑鉄(低リン銑鉄)製造を起業目的としたが、起業直後の第一次世界大戦終結で事業継続が困難となり、1921年12月の会社組織化と長い休眠期間を経て事業目的を転じ電気炉による研削材(溶融アルミナ・炭化ケイ素)製造を始めた。研削材の試作開始は1926年、事業本格化は1928年のことである。工場は信濃電気柏原工場の西隣(裏側)にあり、信濃電気からの供給電力は1,800 kW(1930年末時点)であった。化学工業会社のもう一つは信越窒素肥料、後の信越化学工業である。同社については後述する。 供給区域について見ると、北信地方では1923年7月より下水内郡岡山村大字一山(現・飯山市一山)で、東信地方では1924年11月より北佐久郡北御牧村(現・東御市)の郷仕川原集落でそれぞれ供給を開始した。前者は自社供給区域の北端、後者は東端にあたる。信濃電気の営業報告書によると、これ以降に供給区域へと編入された地域は存在しない。信濃電気と並ぶ北信の有力電力会社である長野電灯は、1923年に群馬県西部の電力会社西毛電気を合併し、さらに以後も事業統合を推進していくが、これに対して1920年代に信濃電気が実施した事業統合は前述の武石電力興業からの事業譲り受け1件のみである。 合併の実施はないものの合併を伴わない増資は1920年代を通じて2度あり、1922年9月に400万円、1927年4月に900万円の増資をそれぞれ決議し、資本金を1700万円とした。この資本金額は長野電灯(1928年に1600万円へ増資)よりも大きい。
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