銀札実施後
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1755年(宝暦5年)2月5日に銀札使いの諸規定を定め、銀札が実施された。規定は以下の通りである。「しばらくは銀札と正銀を取り混ぜて使用すること。金で取り扱いするときには、金1両につき、銀60匁を両替しその場合には半分銀札を使うこと。銀で取引するときには銀1匁につき、銀70文の相場で行うこと。正銀100匁は銀札101匁、銀札102匁は正銀100匁で兌換すること。他藩の商人や旅人は正銀を通用すること」などであった。幕府との公約通り他藩の迷惑にならない規定だったが、最初から打歩がつけられていた。 銀札が実施されると銀札の価値はたちまち下がっていった。人々は正金銀を退蔵し、銀札を手に入れた場合はすぐに正銀に兌換しようと取引所に殺到した。わずか1ヶ月で兌換自由の規定は見直され、3月25日に兌換を一切認めず、他藩に正銀を支払う場合にも厳しい制限がついた。しかし、わずか1ヶ月で規定を変えたことが人々の銀札への不信を深めることとなった。5月17日5ッ時を期して、藩は久保田城下の61軒を捜索した。退蔵している金銀や銭、米を一気に摘発しようとするものだった。どこからか計画が漏れたのか結果は期待外れの大失敗に終わった。流言が飛び交い人々は極度に動揺した。 6月に藩は規定をさらに変えた。領内の一切の売買は銀札に限るというのであった。藩外との交易でも藩内に出入りする際に引換所で正銀に変えることを強制した。また1755年(宝暦5年)は飢餓が進行するのが予想されたので、藩から生産される米をすべて買い上げる「御買米仕法」も実施された。藩は城下の蓄米をすべて調べ上げてそれを元に、米座から米を配給した。米の配給は渋滞し久保田や土崎湊は眼もあてられない無間地獄になっていた。しかし、1756年(宝暦6年)は相当の豊作が予想されたので、人々は御買米仕法の緩和を期待した。しかし、銀札を乱発したせいで米価は上がったままであった。 1756年(宝暦6年)11月、家老の真壁掃部助、小田野又八郎らが御役追放蟄居となり、銀札奉行赤石藤左衛門は改易となった。理由は「御買米仕法」による米の買い上げ価格を上意に反して独断で決めたものである。銀札によってインフレーションが発生しており、米価を下げることによって諸物価の高騰を防ぎたかったものである。12月久保田藩の全ての家臣が集まり会議をしたが結論が出ず、藩主に御伺いを立てる有様であった。 1757年(宝暦7年)2月美濃国石津郡多羅尾村の3人が幕府を通して訴えて来た。多羅尾村は茶を栽培して第一の生計にしている村である。銀札で茶の代金を得ていたが、宝暦5年に兌換できず、宝暦6年にも豊作なはずなのに、未納が続いたためである。3月13日に江戸御評定所で裁判と決まった。「銀札発行によって他藩の妨げにならない」と確約している久保田藩は慌てた。久保田藩のあつい饗応と即時兌換によって願いは取り下げられた。しかし、この事件の責任を取って白土奥右衛門や大縄幸左衛門らの銀札奉行が遠慮し退役せざるを得なかった。 このとき、平本茂助が中心となって銀札仕法は4度目の改革になった。平本の改革は銀札派官僚の権限を押さえたものになった。自由に商人が産物を売り買いしたり、富豪が金銀を貯めるのをお構いなしとしたものであった。これは、今までの銀札方役人の誤りを指摘して、銀札政策を破棄するものであった。家老・梅津外記は銀札執行には積極的であった。対して家老・石塚孫太郎や岡本又太郎(石塚の弟)らは批判派であった。平本茂助は江戸に登った川又の後任で、石塚孫太郎は真壁の後任だから共に銀札執行に責任は無かった。しかも銀1匁に対して、銭2・3文まで落ちていた銀札の価値が、この改革で12文まで立ち直った。
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