銀本位制と国際金本位制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:42 UTC 版)
「中国の貨幣制度史」の記事における「銀本位制と国際金本位制」の解説
銀についてはアヘン貿易が問題となるまで流入が続いていたが、銅貨の不足は解消されず、銭票が増加する一因にもなった。銭票は道光帝期になると6種類が普及した。 凭帖:銭荘が発行。随時現金と交換できる。 兌帖:銭荘が発行。別の店で制銭や銀両で受け取られる。 上帖:銭荘の間や、銭荘と質屋の間で契約して発行した。 上票:銭荘以外の商店から発行。銭荘でも使用できるが、信用性がやや下がる。 壺瓶帖:年末の資金不足の時期に一般商店や銭荘が発行。 期帖:現在の先物の手形に近い。 凭帖・兌帖・上帖は現金と同じように使用された。上票・壺瓶帖・期帖は随時には現金と交換できなかった。 清政府も、アヘン戦争や太平天国の乱などの戦争による財政支出の増加と歳入不足により紙幣を発行した。しかし政府が発行する紙幣を使う習慣が長らくなかったため、戸部官票や大清宝鈔の使用者は裏書きや印章で信用を保証して流通させた。清は財政不足のために朝貢してきた国への回賜に紙幣を使うようになり、朝貢貿易の利益が減った。これにより各国の朝貢は終了していった。銭票は20世紀まで続いて吊票とも呼ばれ、政府や商会に規制される場合もあった。 アヘン戦争以降は賠償金が清の財政を圧迫し、清が義和団の乱の賠償を支払う国は13カ国におよんだ。19世紀からは各国で金本位制の採用がすすみ国際金本位制の時代となっていたが、清は銀本位制であった。そのため銀価格の下落が起きると清の債務は実質的に増加して財政負担が増え、他方で金本位制国家は中国への投資を拡大した。各国は賠償金をもとに中国に投資して、貿易、借款、外債においては外国の銀行が大きな役割を果たした。なかでもイギリス系の香港上海銀行は投資を拡大し、銀資金を清や日本への借款としたり、各国に支店を増やして貿易金融や華僑送金も業務とした。義和団の乱以降は、中国の公的資金も外国の銀行に握られ、税関収入は香港上海銀行、ロシア・アジア銀行、ドイツ・アジア銀行(中国語版)に管理された。
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