銀本位制の確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:34 UTC 版)
明朝建国後には、前期倭寇の弱体化を図るため、強い海禁政策が実施された。これにより、朝貢一元体制が採られるようになり、諸外国は朝貢以外での貿易が出来なくなった。このことで、琉球王国などが朝貢で手に入れた中国産品を他国に輸出することで栄えた。また前期倭寇に対応するため、日本の足利義満に対して勘合貿易を認める代わりに取り締まりを強化するよう求めた。その結果、前期倭寇は縮小した。しかし対外貿易について、民間が一切の貿易を禁じられたため、違法な私貿易が横行した(後期倭寇)。しかし1567年、明朝政府は海禁を廃止し、スペイン・ポルトガルから大量の銀の流入が始まった。 このことに加え、洪武年間の宝鈔提挙司(中国語版)発行の大明通行宝鈔が紙幣として失敗したことが作用して、貨幣体系は銀本位制に向かった。当時の世界の銀需要の3割は中国にあり、海禁の廃止で対外貿易が復活したため、銀の使用が主流になり、内閣大学士であった張居正の改革の1つとして、一条鞭法が始まった。これにより、明代では政府でさえも銀を用いて経済活動を行うようになった。
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