銀札実施まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 15:20 UTC 版)
慢性化してきた藩財政の窮乏に対処し、その打開策として久保田藩が幕府に対して銀札の発行を願い出たのは1754年(宝暦4年)6月であった。久保田藩商人の森元小兵衛が進言し、財用奉行の川又善左衛門が推進、4月に家老、勘定奉行、町奉行らが寄り合い、相談を進めたものであった。藩が幕府に提出した「御伺書付」によれば、「秋田藩は近年財政が欠乏し、加えて不作が続き領民も困窮している。そこで銀札発行により諸商売を盛んにして藩士や商人、農民を救いたい。仙台藩や白河藩でも藩札を発行した例がある」というものであった。幕府は勘定頭一色周防守を通して2つの反問を伝えた。「久保田藩は昔から銀が多く産出する藩だったのではないか」というものと「銀札発行によって他藩の妨げにならないか」というものであった。これに対し、久保田藩は2つめを重視し「銀札は久保田藩内の富裕町人・百姓を札元とする兌換券とするので問題は発生しない」と答え、7月27日に許可をもらった。同年10月11日、川又善左衛門は銀札発行を伝え聞いて動揺する藩士や庶民を納得させるために「上意之覚」を配布して藩が銀札発行に至った経緯を説明した。また、銀札の下絵や札元の富裕町人・商人の世話の差配をしている。札元が最も遅くまで決まらず、進言した商人の森元小兵衛も固辞し、やっと10月末に佐竹藩の豪商だった見上新右衛門や鉱山師の(松坂屋)伊多波武助ら34名に札元が決まった。
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