重豪の再登板
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:38 UTC 版)
重豪は新藩主斉興を後見する形で再び薩摩藩の実権を握った。重豪にとっても最大の懸案は財政難問題への対応であった。斉宣の改革を否定した重豪であったが、実際に取った施策の多くは斉宣の改革と類似したものであった。まず重豪が取り組んだことが琉球貿易で入手した中国産品の長崎での販売許可であった。これは前述のように斉宣の改革における増収策であった。斉宣の時は長崎貿易への悪影響を与えるとして幕府の許可が得られなかったが、重豪は将軍岳父という立場を利用して幕閣に対して運動を行い、文化7年(1810年)には幕府から8品目、金額的には銀30貫目から40貫目について5年間の期限付きで長崎での販売許可を得て、その後、期限延長、販売品目、販売額の拡大が進められていった。またこれまで以上に経費削減を徹底するよう指示も出された。 文化10年(1813年)、重豪は薩摩に一時帰省して藩政を直接指揮した。その中で趣法方という財政面全般を扱う部署を設立する。この趣法方は調所による薩摩藩の天保改革では中心的な役割を果たすことになる。そして重豪は江戸への帰途、大坂で120万両あまりの藩債を破棄するという思い切った債務削減策を断行する。しかしこの藩債破棄は深刻な副作用を及ぼした。大坂の商人たちは薩摩藩への不信感を高め、借金の相談に応じなくなり、現金入手の目途が立たなくなってしまった。薩摩藩は仲介者を通すことによって何とか金を借りることが出来たため急場は凌げたものの、この借金の金利は高く、しかも仲介者は窮地に追い込まれた薩摩藩側の要求通りには動かず、文政2年(1819年)には約束していた2万両の貸し出しを拒否し、薩摩藩側は金策に窮することになった。その上、重豪の藩債破棄自体も失敗したと考えられ、結局債務が減ることはなかった。このような窮地の中で、文化11年(1814年)、薩摩藩は幕府に対して参勤交代における供回り人員削減の許可を求め、更に10年間の幕府軍役賦課免除を申請した。これもまた斉宣の改革での参勤交代の15年間免除を幕府に請願する計画と同一方向の施策であった。 文化文政期、薩摩藩の債務は雪だるま式に膨らみ、文政末年には500万両に達した。これは将軍岳父の重豪は幕閣、諸大名と広く交際をしており、交際費や諸大名との縁組に際する婚礼費用に多額の費用が掛かったこと。蘭学に通じ開明的な重豪自身にも浪費の傾向があったこと。そして江戸住まいを続ける重豪、斉宣の2名の隠居に費やされる必要経費が莫大であり、重豪は20万石、斉宣は10万石の大名に匹敵するほどと言われた。そこで重豪、斉宣の薩摩藩内での隠居が検討されたものの上手くいかなかった。経費の増大となかなか思うように増えない収入の中、江戸詰め藩士たちへの俸給が10カ月以上支払いがストップする異常事態となった。
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