重豪の逆襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/11 05:06 UTC 版)
斉宣は市田盛常の後任江戸家老に島津一門の一人である島津安房を任命し、文化5年2月9日には鹿児島を出立して江戸に向かった。ところが江戸に到着後、島津安房は幕府老中への目通りが許可されず、仕事が引継できずに宙に浮く形となった。当時、若年寄の一人・有馬誉純に重豪の息子が養子入りする予定になっており、そのつてを使って重豪が島津安房の目通りを妨害したと考えられている。このため、斉宣の意向が江戸に伝わらない事態になり、改革はいきなり頓挫する形になった。 同年6月は定例の参勤交代で江戸へ出発する月であり、斉宣は秩父季保を江戸に同行させることにしたが、季保の長男が急逝したため同行は不可能となった。そのため斉宣も「病気」と称して参勤交代を遅らせていたが、重豪は先手を打ち、5月8日に樺山久言、秩父季保両名へ隠居を命じた。これより、斉宣が参勤交代で江戸に向かうと、改革の推進者である両名が重豪の命により処分される可能性が非常に高くなったため、斉宣は「重病」と称して参勤交代を引き延ばしにかかる作戦に出た。しかし、これは重豪に付け入る隙を与える結果となり、「重病」の斉宣の代理と称して、重豪が鹿児島藩の政務に介入するようになったのである。
※この「重豪の逆襲」の解説は、「近思録崩れ」の解説の一部です。
「重豪の逆襲」を含む「近思録崩れ」の記事については、「近思録崩れ」の概要を参照ください。
- 重豪の逆襲のページへのリンク