適正技術への批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/17 06:48 UTC 版)
1970年代、「適正技術」は一種のブームであった。ただ、適正技術の普及に熱心であったのは、途上国よりむしろ国際機関や先進国であった。このため途上国には、「先進国と途上国の相対的位置関係を固定するための陰謀である」という論が生じた。 この先進国での適正技術ブームともいうべき状況に対してラングドン・ウィナーは批判し、「『何に対しての適正なのか』という問いに答えない限り、『適正技術』の概念に意味はない」と述べた。ウィナーはさらに「ある国にとって好都合な農業技術が、別の国にとって望ましいとは限らない。つまりどの社会も、自分のニーズに適正な手段が何であるかを、決めなければならなかった。(中略)。『適正技術』が何らかの意味を持つためには、文化的規範に挑戦し、新しい文化規範を提案すべきなのである」と述べた。 また適正技術のブームの中で発生した「さまざまな適正技術を集めて分類し目録化する試み」に対してもラングドン・ウィナーは厳しく批判した。技術を評価する価値基準体系は両立不可能なさまざまな条件で満ちており、「そもそも内部に矛盾をかかえているもの」と論じた。そして適正技術とされるものほとんどは実用性が疑わしいとして、以下のように論じた。 適正技術運動の遺産は、それが生み出した発明品やテクニックの中からは、見いだすことができない。実を言うと、優れた実用性をもつものは、わずかしかないのである。実証のための作業場に出かけた訪問者たちは、「われわれの風車は今日は修理中であり、太陽集熱器は来週には運転できるだろう」といった説明をうけることが通例であった。いかなる新技術を実用化するにも、開発、欠陥の手直し、運用のさまざまな段階を経ることが必要であるが、それらの段階をすべて乗り越えることができた研究グループは、ほとんどなかった。完成したとか、運転中であるとか喧伝された装置類の多くは、実際にはそうではなく、きわめて長期間にわたる試験をまだ行っていなかったのである。 — ラングドン・ウィナー 、『鯨と原子炉』 サセックス大学のエイドリアン・スミスは、「適正技術の主張と試みの多くは、大企業による製品を拒否するといったこだわりや、閉じたコミュニティ内での実践のために、少なくとも先進国の中では大きな潮流を形成することなく現在に至っている」と指摘している。 ラングドン・ウィナーは、適正技術という言葉を使う人々に対しても以下のような批評を行っている。 (適正技術について)決して議論されることがなかった驚くべき事実は、なぜかくも多数の北米やヨーロッパの中間階級の人々−−おそらくは現代の技術社会の恩恵をもっとも享受している人々−−が、そもそもどういう理由で「適正」技術のようなものに魅せられるようになったのか、ということだ。 — ラングドン・ウィナー 、『鯨と原子炉』 東南アジアで開発援助の現場を行っていた田中直は、純粋に近代技術が途上国の人々を強く惹きつけるものであるとしたうえで、以下のように適正技術のあるべき姿を示した。 私がインドネシア社会と付き合う中で日本人が失ってきたさまざまな能力に気づき、また近代技術の正の側面も相応に評価できるようになったように、「先進国」は「途上国」から多くを学べるし、また「途上国」からの正当な批判なしには「先進国」の技術の見直しも進まないだろう。私たちは想像力を駆使し、それぞれの地域の条件に適した、環境に負担をかけない技術を多様に生み出していかなければならない。(中略)。(シューマッハーの定義がゆらいでいることを指摘したが)私はそれを批判したいのではない。その2つの文脈の技術が相互に刺激し合い動的に連携し合う中で、新しい世紀に必要とされる技術体系がそれぞれにつくりあげられていくと考えたいのである。 — 田中直 、「適正技術の創出に向けて」『アジアの内発的発展』
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