運輸・観光事業への進出とは? わかりやすく解説

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運輸・観光事業への進出

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/13 10:44 UTC 版)

岩崎與八郎」の記事における「運輸・観光事業への進出」の解説

第二次世界大戦後は、運輸・観光事業への進出を図った1952年昭和27年5月に、当時既に経営傾き始めていた南薩鉄道取締役請われ就任し12月3日には社長に就任した南薩鉄道長く現状維持甘んじていたが、岩崎就任する積極策に転じ運行費用の安い気動車導入して蒸気機関車淘汰し、さらに岩崎長崎惣之助国鉄総裁知己であったことを生かして1954年昭和29年)から国鉄線に乗り入れ西鹿児島駅現在の鹿児島中央駅)へ直通するようになった。 また大隅半島バス網を持っていた三州自動車からも買収して欲しいとの声がかかり、1953年昭和28年2月26日社長に就任した。これにより薩摩半島南部大隅半島両方バス網と南薩鉄道鉄道路線抱えて交通網掌握することになり、両社1964年昭和39年9月1日合併して鹿児島交通となった。 さらに屋久島観光開発考えて当時破格の1,000 トンクラスのフェリー「屋久島丸」建造し1961年昭和36年12月26日就航させた。こうして鹿児島離島を結ぶ航路傘下収めた観光事業では、指宿温泉開発着手した当時は「いぶすき」と正しく読んでもらうことは難しい、田舎湯治場過ぎず200名の団体客が来れば受け入れ苦労するといった状態であった。ここに初めての大規模観光ホテルである「指宿観光ホテル」を建設し1956年昭和31年)に開業した1959年昭和34年)には、名物となる「ジャングル浴場」を開設して有名となり、全国から観光客集めようになった開聞岳山麓では、後にカシオワールドオープンゴルフトーナメント開かれるゴルフ場であるいぶすきゴルフクラブ開聞コース開発行った。 また大隅半島南端佐多岬着目し1963年昭和38年)には民間所有有料道路である佐多岬ロードパーク建設した一方鹿児島県外でも1960年昭和35年)に箱根ホテル開設し1969年昭和44年)には伊豆石廊崎ジャングルパーク開設した久住高原においても、1971年昭和46年10月20日久住高原ロードパーク着工するものの、環境問題などの影響工事中断遅延来たし、これが開通したのは岩崎本人亡くなった後の1994年平成6年)のことになった1972年昭和47年)にはオーストラリア進出目指して、豪州岩崎商事設立した。ヤップーンにキャプリコーン・イワサキ・リゾートの建設着手したが、環境破壊懸念する自然保護団体日本人土地占有することに反発する在郷軍人会からの反対があり、1980年昭和55年11月29日には施設爆破事件起き騒ぎとなった。しかし1984年昭和59年9月リゾート開業こぎつけている。これを記念して鹿児島市平川動物公園にはオーストラリア側からコアラ寄贈されている。 一方、妻芳江は1979年昭和54年9月亡くなったが、與八郎本人オーストラリア滞在中でその死を看取ることはできなかった。

※この「運輸・観光事業への進出」の解説は、「岩崎與八郎」の解説の一部です。
「運輸・観光事業への進出」を含む「岩崎與八郎」の記事については、「岩崎與八郎」の概要を参照ください。

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