運輸・観光事業への進出
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「岩崎與八郎」の記事における「運輸・観光事業への進出」の解説
第二次世界大戦後は、運輸・観光事業への進出を図った。1952年(昭和27年)5月に、当時既に経営が傾き始めていた南薩鉄道の取締役に請われて就任し、12月3日には社長に就任した。南薩鉄道は長く現状維持に甘んじていたが、岩崎が就任すると積極策に転じ、運行費用の安い気動車を導入して蒸気機関車を淘汰し、さらに岩崎が長崎惣之助国鉄総裁と知己であったことを生かして、1954年(昭和29年)から国鉄線に乗り入れて西鹿児島駅(現在の鹿児島中央駅)へ直通するようになった。 また大隅半島にバス網を持っていた三州自動車からも買収して欲しいとの声がかかり、1953年(昭和28年)2月26日に社長に就任した。これにより薩摩半島南部と大隅半島の両方にバス網と南薩鉄道の鉄道路線を抱えて交通網を掌握することになり、両社は1964年(昭和39年)9月1日に合併して鹿児島交通となった。 さらに屋久島の観光開発を考えて、当時破格の1,000 トンクラスのフェリー「屋久島丸」を建造し、1961年(昭和36年)12月26日就航させた。こうして鹿児島と離島を結ぶ航路も傘下に収めた。 観光事業では、指宿温泉の開発に着手した。当時は「いぶすき」と正しく読んでもらうことは難しい、田舎の湯治場に過ぎず、200名の団体客が来れば受け入れに苦労するといった状態であった。ここに初めての大規模観光ホテルである「指宿観光ホテル」を建設し、1956年(昭和31年)に開業した。1959年(昭和34年)には、名物となる「ジャングル浴場」を開設して有名となり、全国から観光客を集めるようになった。開聞岳山麓では、後にカシオワールドオープンゴルフトーナメントが開かれるゴルフ場であるいぶすきゴルフクラブ開聞コースの開発も行った。 また大隅半島南端の佐多岬に着目し、1963年(昭和38年)には民間所有の有料道路である佐多岬ロードパークを建設した。 一方、鹿児島県外でも1960年(昭和35年)に箱根にホテルを開設し、1969年(昭和44年)には伊豆に石廊崎ジャングルパークを開設した。久住高原においても、1971年(昭和46年)10月20日に久住高原ロードパークに着工するものの、環境問題などの影響で工事が中断と遅延を来たし、これが開通したのは岩崎本人が亡くなった後の1994年(平成6年)のことになった。 1972年(昭和47年)にはオーストラリア進出を目指して、豪州岩崎商事を設立した。ヤップーンにキャプリコーン・イワサキ・リゾートの建設に着手したが、環境破壊を懸念する自然保護団体や日本人が土地を占有することに反発する在郷軍人会からの反対があり、1980年(昭和55年)11月29日には施設で爆破事件が起きる騒ぎとなった。しかし1984年(昭和59年)9月にリゾートは開業にこぎつけている。これを記念して、鹿児島市平川動物公園にはオーストラリア側からコアラが寄贈されている。 一方、妻芳江は1979年(昭和54年)9月に亡くなったが、與八郎本人はオーストラリア滞在中でその死を看取ることはできなかった。
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