遊撃軍団・連枝衆として
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天正2年(1574年)7月、第三次長島一向一揆攻めに従軍したが、これが初陣であったと考えられる。長島平定後は滝川一益が北伊勢4郡に封じられたため、伊勢国は滝川一益・神戸信孝・長野信包(信長弟、伊勢長野氏養子)、そして翌年頃に北畠氏の家督を継いだ信雄(信意)の4人で分割統治されることになった。これらの伊勢衆が織田家の遊撃軍団として以後各地を転戦した。 この頃の信孝の支配地は、河曲郡・鈴鹿郡の2郡のみで、5万石ほどの知行であったという。 天正3年(1575年)8月、信包・信雄と共に越前一向一揆討伐戦に参加し、残党狩りにも活躍。天正4年(1576年)には信雄が家臣を謀殺した三瀬の変の後始末に出陣し、天正5年(1577年)2月には織田の家督を相続した信忠の指揮下で雑賀攻めにも参加した。 同年11月、従五位下侍従に叙任された。 天正6年(1578年)4月に信忠に従って大坂表に出陣し、5月にも同様に播磨国に出陣した。6月27日の神吉城攻めでは足軽と先を争って勇敢な戦いを見せた。同年11月には荒木村重が謀反を起こしたので、信長は討伐戦(有岡城の戦い)のために安土を出陣したが、信孝は安土城の留守居として残された。しかし間もなくして信忠が出陣すると、信孝もこれに従って出陣して高槻城攻囲に加わる。以後、有岡城包囲の間中、信忠の指揮下で有岡表・播磨三木表などで活動した。 信孝は信忠軍団の組下にありながらも、信長の側近としても活動した。天正8年(1580年)、村井貞勝を補佐してしばしば在京し、禁裏との交渉にあたる。6月29日、正親町天皇から杉原十帖と練香十貝を賜った。7月、本願寺教如が退去するに際して誓詞を交わすために上京した信長に随行。同月28日、陣所とした妙満寺に吉田兼和・水無瀬親具の訪問を受けた。12月に再び禁中より薫物を賜った。 同年、伊勢では神戸城の拡張工事に着手しており、五層の天守や多数の櫓を持つ近世城郭を完成させた。また、この頃、信孝が筒井順慶の猶子となって大和国の国持大名になるという風説が奈良で流れたが、これは実現していない。 天正9年(1581年)正月15日の左義長、2月27日の馬揃えに、それぞれ連枝衆の1人として参加。馬揃えでは、信忠が騎馬80騎、信雄が30騎、信包が10騎、同じく信孝も10騎で、津田信澄(織田信澄)も10騎であり、一門の中で信孝は第4位の序列であった。7月25日、信忠・信雄・信孝の3名は安土城に呼ばれて、信長から直々に名刀を拝領した。9月7日、信孝は病気の村井貞勝に代わって、禁中に袋を献上した。 信長は同年8月17日に高野聖数百人を安土において処刑し、畿内で唯一信長に従わない高野山を屈服させるために10月より高野山攻めを開始していたが、『高野春秋編年輯録』ではこの遠征の総大将を信孝とする。他にこれを裏付ける史料はないので総大将であったかは定かではないが、翌年春頃には信孝も紀州に出陣していたと考えられる。このために同時期の甲斐武田氏との戦いに参加できなかったが、木曾義昌が武田勝頼から離反するに際しては信孝が取次役となって、天正9年中に信孝が所領安堵の約束をしている。義昌はその後も信孝に通じて徳川家康との両仕えになった。
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