遊撃軍団・連枝衆としてとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 遊撃軍団・連枝衆としての意味・解説 

遊撃軍団・連枝衆として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 16:20 UTC 版)

織田信孝」の記事における「遊撃軍団・連枝衆として」の解説

天正2年1574年7月第三次長島一向一揆攻め従軍したが、これが初陣であった考えられる長島平定後は滝川一益北伊勢4郡に封じられたため、伊勢国滝川一益神戸信孝長野信包信長弟、伊勢長野氏養子)、そして翌年頃に北畠氏家督継いだ信雄(信意)の4人で分割統治されることになった。これらの伊勢衆が織田家遊撃軍団として以後各地転戦したこの頃の信孝の支配地は、河曲郡鈴鹿郡の2郡のみで、5万石ほどの知行であったという。 天正3年1575年8月、信包・信雄と共に越前一向一揆討伐戦参加し残党狩りにも活躍天正4年1576年)には信雄が家臣謀殺した三瀬の変後始末出陣し天正5年1577年2月には織田家督相続した信忠指揮下で雑賀攻めにも参加した同年11月従五位下侍従叙任された。 天正6年1578年4月信忠に従って大坂表に出陣し5月にも同様に播磨国出陣した6月27日神吉城攻めでは足軽先を争って勇敢な戦い見せた同年11月には荒木村重謀反起こしたので、信長討伐戦有岡城の戦い)のために安土出陣したが、信孝は安土城留守居として残された。しかし間もなくして信忠出陣すると、信孝もこれに従って出陣し高槻城攻囲に加わる。以後有岡城包囲間中信忠指揮下で有岡表・播磨三木表などで活動した。 信孝は信忠軍団組下ありながらも、信長の側近としても活動した天正8年1580年)、村井貞勝補佐してしばしば在京し禁裏との交渉にあたる。6月29日正親町天皇から杉原十帖と練香十貝を賜った7月本願寺教如退去するに際して誓詞を交わすために上京した信長随行同月28日陣所とした妙満寺吉田兼和水無瀬親具訪問受けた12月に再び禁中より薫物賜った同年伊勢では神戸城拡張工事着手しており、五層天守多数を持つ近世城郭完成させた。また、この頃、信孝が筒井順慶猶子となって大和国国持大名になるという風説奈良流れたが、これは実現していない。 天正9年1581年正月15日左義長2月27日馬揃えに、それぞれ連枝衆の1人として参加馬揃えでは、信忠騎馬80騎、信雄が30騎、信包が10騎、同じく信孝も10騎で、津田信澄織田信澄)も10騎であり、一門の中で信孝は第4位の序列であった7月25日信忠・信雄・信孝の3名は安土城呼ばれて信長から直々に名刀拝領した9月7日、信孝は病気村井貞勝に代わって、禁中に袋を献上した信長同年8月17日高野聖数百人を安土において処刑し畿内唯一信長従わない高野山屈服させるために10月より高野山攻め開始していたが、『高野春秋編年輯録』ではこの遠征総大将を信孝とする。他にこれを裏付ける史料はないので総大将であったかは定かではないが、翌年春頃には信孝も紀州出陣していたと考えられるこのため同時期の甲斐武田氏との戦い参加できなかったが、木曾義昌武田勝頼から離反するに際しては信孝が取次役となって、天正9年中に信孝が所領安堵約束をしている。義昌その後も信孝に通じて徳川家康との両仕えになった

※この「遊撃軍団・連枝衆として」の解説は、「織田信孝」の解説の一部です。
「遊撃軍団・連枝衆として」を含む「織田信孝」の記事については、「織田信孝」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「遊撃軍団・連枝衆として」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「遊撃軍団・連枝衆として」の関連用語

遊撃軍団・連枝衆としてのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



遊撃軍団・連枝衆としてのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの織田信孝 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS