連続脱線事故と5両固定編成の登場
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「小田急4000形電車 (初代)」の記事における「連続脱線事故と5両固定編成の登場」の解説
1969年から、小田急では朝の通勤輸送の対応策として、全長20m級の大型車による8両編成での運行を開始することになっていたが、この時点では大型車のみで8両編成を組成できる形式が5000形と1800形しか存在しなかった。折りしも1800形は1967年から1969年にかけて体質改善工事が実施されており、ブレーキも4000形と同じHSCに変更されていた。 このような事情から、4000形と1800形を連結した8両編成について検討が進められ、理論上は問題ないという結論となったことから、1969年から1800形と4000形を連結した5両編成での運用が、それに4000形をもう1編成連結した8両編成での運用が開始された。1800形と4000形の連結運用によって、朝の通勤急行のうち9本が4000形と1800形を連結した大型8両編成で運行できるようになり、大幅な輸送力増強が図られた。 ところが、4年ほど経過した1973年、4月19日と5月2日に連続して脱線事故が発生した。このため、急遽1800形との連結は中止されることとなり、1800形と4000形の連結によって運行されていた9本の通勤急行のうち、7本を4000形だけで運用する必要に迫られた。このため、7編成に対して制御車を外したうえで他の編成に連結する暫定5両編成が組成され、編成から外された制御車7両は休車となった。 脱線事故については、運輸省内に「小田急線連続脱線事故調査委員会」が設置され、同年5月28日深夜には検証と原因究明のために実車を使用した測定試験が行なわれた。日本の私鉄における脱線事故で、大掛かりな現車試験が行なわれるのはこれが初めてのことであった。この結果、脱線の要因は低速時の浮き上がり脱線であることが判明した。当時小田急電鉄勤務だった生方良雄は、後年「4000形のパイオニアIII形台車と、ばねの固い1800形のDT13形台車の相性が悪かったことが真実だと思う」と述べている。 その一方、制御車7両が休車となったことによって運用車両数が確保できなくなり、一部列車の編成の削減を余儀なくされる状態となった。この対応策として、1974年から4000形の中間電動車を増備することによって暫定5両編成を解消することになった。 中間電動車の増備にあたり、制御車に使用していたPIII-706T形台車を増備される中間電動車に流用することになり、1974年から1975年にかけて制御車の台車を新製された軸ばね式空気ばね台車のTS-814形に交換した。PIII-706T形台車は若干の改造のうえで電動台車のPIII-706M形に変更された。しかし、増備される中間車が26両であるのに対し、パイオニアIII形台車を提供する制御車の両数は22両だったため、不足する4両分の台車は軸ばね式空気ばね台車のTS-818形を新製した。主電動機については、ABF車のものを流用することになり、ABF車の淘汰が進められることとなった。5両固定編成化に伴い、デハ4000番台のパンタグラフを撤去したほか、クハ4050番台の電動空気圧縮機 (CP) を大容量のC-2000M形に交換し、デハ4200番台の車両にも搭載された。 中間電動車の増備により、1976年までに13編成が5両固定編成化され、暫定5両編成は解消された。 1973年から1976年にかけて自動解結装置と電気連結器の設置が行なわれたほか、1976年から1978年にかけて全ての先頭車にスカートを設置した。また、3両固定編成のクハ4050番台の電動空気圧縮機 (CP) を大容量のC-2000M形に交換した。
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