迷宮 (同人サークル)とは? わかりやすく解説

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迷宮 (同人サークル)

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迷宮(めいきゅう、ラビリンス)は、1975年に結成された日本漫画批評集団である。漫画批評誌漫画新批評大系』を刊行するとともに、世界最大級の同人誌即売会コミックマーケット[5]や創作同人誌即売会『MGM(Manga Gallery & Market)』の創設母体となった。


  1. ^ 「迷宮代表は、今回もコロナ禍下における有料チケット制についてはいかがなものかということで欠席。」堀内満里子『21世紀通信 2022冬』(コミックマーケット101にて頒布/2022年12月31日)1P
  2. ^ a b c 「自分は迷宮メンバーではありませんが、亜庭さんに頼まれてスペースを守っています。今の迷宮代表は、コロナ禍下での開催のやり方に異論があるので来ません。まあ迷宮も現役で活動できるのは一人だけになってしまったな。」「(今の代表は)霜月たかなかさんです。その名義で申し込んでいます。他の主要メンバーはもう、死に絶えたも同然。」堀内満里子のツイート 2022年8月12日
  3. ^ 亜庭じゅん「マニア運動体論・序説 ──方法の問題── マニアに未来はあるか!?」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)478P
  4. ^ 亜庭じゅん「寄稿 まんがせえる ファイナルレポート」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)679P
  5. ^ 100回目のコミックマーケット 「SPY×FAMILY」などコスプレで楽しむ参加者の姿” (2022年8月14日). 2022年8月15日閲覧。
  6. ^ 「迷宮を始めるに当たってメンバーは、3000円ずつ最初に出している。コピー機の購入などにあてるためだ。その後、資金となったのは本の売り上げ、予約金だった。コミケットも迷宮から借金しながら77年頃までは開かれることになっていく。それと、当日集まったカンパによって、なんとかなっていたというのが実状である。準備会が立ち上がってからも、迷宮への借金は残ったままの形となり、コミケット永久スペース提供という約束が交わされ、それは今も続けられている。」米澤嘉博「前史」『コミックマーケット30'sファイル』(有限会社コミケット 2005年7月25日)29P
  7. ^ 「高宮さんが原田さんに『亜庭じゅんっていうのが東京にいるから、場を持ってみたら?』と推薦して、あにじゅんに声をかけて、米やんにも声をかけてみんなで会ったのが始まりです。西と東の連中5人が1975年の4月に新宿のカトレアって喫茶店に集まって、そのメンバーでなんとなく活動を始めました。」式城京太郎「『迷宮』と初期コミケット」『20世紀エディトリアル・オデッセイ』(誠文堂新光社 2014年4月30日)160-161P
  8. ^ 「命名の場所は珍しく新宿の喫茶店であった(たしか『カトレア』であったと思う)。『黒い稲妻』とか色々案は出たのだが、これというものが無く困っていたが、亜庭氏が『迷宮』と言ったとたん、皆『それだ』ということになり、あとは一気呵成、迷宮(ラビリンス)の後ろに年号を入れようとか、会報名は山上たつひこ氏の『喜劇新思想大系』をもじって『漫画新批評大系』としたり、コラム名を『アリアドネの糸』にしようとか次々に決まっていった。」明石良信『昔話1 始まり編』2006年12月5日 mixi
  9. ^ a b 「『COM』なき時代にまんがに対して、単なるマニアが何をできるのか?/答えを求め、読者の側からまんがに働きかけようと有志が集まり、まんが評論サークル『迷宮』が発足した。/そして『まんが同人によるまんが同人誌即売会』の発想を得てその開催を画策した時、まずもって僕らが心掛けたのは、日本中のまんがサークルのネットワーク化を構想した『ぐら・こん』構想の、挫折の愚を繰り返さぬこと。即ち『COM』を、目的実現のための反面教師とみなすことだったのはなんという皮肉だろう。」原田央男「『COM』の残滓と『コミケ』黎明期の熱い季節」『東京人no.341』(東京出版 2014年7月3日)37P
  10. ^ 「『迷宮』の結成、漫画新批評大系の刊行とコミックマーケットの開催は、COMの崩壊後、自分たちで始めた『ぼくらの延長戦』だったが、亜庭じゅんは、『MGM』で更にその先を一人で戦い続けた。」高宮成河「後記」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)830P
  11. ^ a b 「正確にいえば僕らが作ったのはサークルでもクラブでもない。そこに集まって運動をなす者が構成員となるいわば『場』であって、その場に集う者が状況の中心になることを目指すことがその活動となる。そこまでいってしまうとさすがに建前になるかもしれないが、とにかく会員制ではなく、そのかわり活動の責任を負う構成員として僕や亜庭じゅん、米やんなどがいたのだということをわかってもらえればと思う。」霜月たかなか『コミックマーケット創世記』(朝日新聞出版 2008年12月30日)117P
  12. ^ 「このI嬢(引用者注:石川妙子)はその後、相思相愛の式城京太郎と1977年4月に結婚。幸せな生活を送っていたが、87年に不慮の事故により帰らぬ人となってしまった。『漫画大会を告発する会』結成のきっかけとなったことで、コミックマーケットの設立をも大きく促したことになる彼女の他界は、その時すでにまんがファン活動から離れていた僕にとっても最大の痛恨事となった。再会のかなわぬ記憶のなかの人となってしまったことが、今でも残念でたまらない。」霜月たかなか『コミックマーケット創成記』朝日新聞出版(朝日新書)2008年, Kindle版, 位置No.全2936中 1862 / 63%。ISBN 978-4022732507
  13. ^ 「迷宮が対しようとしていたのは、スポ根や学園ラブコメに堕ちた商業誌マンガであり、旧態依然のマンガ評論であり、BNF(ビッグネームファン)など自閉した遊びに堕ちていったマンガファンダムであり、また『COM』の幻想に引きずられているファンたちであり、何も考えていない新興の若い世代だった。全てを解体した上で、混迷の状況の中に新たなマンガ状況を創り出して行くこと。その中には漫画大会や、コレクターたち中心のマンフェスへの決別の意志も含まれていた。そして、そうした中で、状況に検討を加え、新たな芽を育てていくこと。/そこに持ち込まれた漫画大会拒否事件は、早急に手をつけなければいけない問題でもあったのである。」米澤嘉博「前史」『コミックマーケット30'sファイル』(有限会社コミケット 2005年7月25日)27P
  14. ^ 「『迷宮』の結束がすごく固まったのは共通の敵が生まれたことで、それが漫画大会でした。以前からボランティアの警備係が官僚的というか、虎の威を借る狐というか、サングラスをして威張って非常に感じが悪かった。主催者の側はまあ任せるよって程度だったと思うんですけれど、そいつに象徴されるようなお役人的な雰囲気があって、それに対する反発があったんです。そこにきて参加者を拒否するって事件が起きたんです。石川妙子なんですが、参加申込書の隅にその警備係や漫画大会への批判的なことを書いたんです。そうしたら主催者の側から参加を拒否しますって書状が届いたんですね。それで当時私が恋人だったもんですから、私のところにこんなことされちゃいましたって同封されてきて、それを『迷宮』の集会で見せたんです。そうしたら、みんな盛り上がっちゃって『漫画大会を告発する会』を立ち上げて。」式城京太郎「『迷宮』と初期コミケット」『20世紀エディトリアル・オデッセイ』(誠文堂新光社 2014年4月30日)161P
  15. ^ 「が然、集会は騒がしくなっていった。その頃、迷宮の集会はもっぱら、新宿丸井の屋上のテラスで行われていた。イスと机があり、冷水飲み放題(う〜ん、貧乏)という嬉しさ、そのうえ何時間ねばっても追い出されないというよさがあった。なんと、この『マルイ』テラスの集会は、同年(1975)9月から『コミケット定例企画集会』として毎週日曜開かれるようにさえなっていた。/迷宮から派生する形で『漫画大会を告発する会』が結成されたのは7月のことだ。更にそれは、迷宮の活動の場を再考させることでもあった。/もともと、読者状況の変革を目指していた迷宮の中には、恒常的なマンガフアンのための『場』の構築と発想があった。要するに同人誌のための場であるコミックマーケットのことだ。それが、この年の夏から動き出し、12月には第一回という早い実現に至ったのは、対漫大という状況があったからだろう。『漫画新批評大系』『コミックマーケット』『漫画大会を告発する会』は三身一体だったのだ。」米澤嘉博「夢の記憶 記憶の夢」『コミケット年鑑'84』(コミックマーケット準備会 1985年8月)143P
  16. ^ 「そして成果の面から見れば『漫画大会を告発する会』の活動は不毛であったとも思われるかもしれないが、実はこの活動を通じて『迷宮』は『漫画大会』に代わるまんがファンみずからの手になるイベントを模索せざるをえなくなり、将来の課題と考えていた『コミックマーケット』の実現に向けて大きく一歩を踏み出すことになるのである。亜庭じゅんの言葉を借りればそれは『反“漫画大会”でコミケットができたわけではない。ただあのころの大手サークルはどこもかしこも(プロ作家、役員、参加者の順に並ぶ)ピラミッドになっていたから、そんなヒエラルキーのできるイベントにはしたくな』かったということになる。」霜月たかなか『コミックマーケット創世記』(朝日新聞出版 2008年12月30日)129P
  17. ^ 「主催の迷宮が購買層の拡大を狙って始めた『ポルの一族』をはじめとするパロディが圧倒的支持を受ける。ここに、ファン、マニア間でのみ成立する、同人誌固有の『表現』としてのパロディが、コミケットの大きな流れのひとつになってしまったのだ。また、七〇年頃の創作マンガの流れが勢いをなくしていたこともあって、青春物や実験マンガといった物が、時代のなかで衰退していきつつあったことも、コミケットが当初描いた未来を大きく変えてしまったのかもしれない。」米澤嘉博「コミケット20年を振り返って」『コミケット20's』(コミックマーケット準備会 1996年3月17日)418P
  18. ^ 「パロディ『ポルの一族』、評論と硬軟から迫った為か一冊作るのに20分もかかるぶ厚い青コピー誌『漫画新批評大系』はかなり売れ、それがコミケットの資金源となった。」米澤嘉博「夢の記憶 記憶の夢」『コミケット年鑑'84』(コミックマーケット準備会 1985年8月)144P
  19. ^ 「まんが批評にとって、もっとも問題になるのは、まさしく、まんがをまんがとして論理化していく方法である。それはいいかえればまんがとは何かを常に衝迫する問いとして、まんがと対していくことなのだ。具体的に、それは絵やデティール、スタイルという言葉で語られている。だが、そうしたものは、必ずしもまんが家個人の個性だけによるものではない。まんがというメディアが持つ拡がり、在り方、連載という一事だけでも大きな要因をなしている中で、自身の価値の体系を組み上げていくことになる。他のジャンルで持っている批評の現実的な力を、まんがは一切持っていない。方法も、基準も、論点すらも、まんがにはない。『作品』『作家』という分析概念すら定かではないのだ。そうしたものを語りたい、知りたいとすれば、ゼロからでも無理矢理始めるしかない。」亜庭じゅん「まんが批評を斬る!!」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)305P
  20. ^ 「『かく』と『よむ』を介在する『物語』こそ、その超えるための武器となるべきであって、現実への肉迫が『かく』ことの意味ではない。そしてまんがとは、何よりも、『かくこと』自身が『物語』を宿しているといった幸福な様式なのだ。/まんがをかく、とは、作品をかくことに限らない。一つのカット、一つの似顔絵ですら、それはマンガである。それは、そうしたカット、落書きの中にすら、何らかのスタイルは存在するからであり、そうしたスタイルは、現実へかけられた変形の力だからである。絵画がその第一歩から『目に見えるもの』の構成へと向かい、現実を『見えるもの』の断面へと、色、形態、量へと還元しようとするのに対し、マンガは、概念としてのことばから出発する。ことばに変形を加え一つのスタイルに閉じこめて、提出する作業が、マンガをかくということなのだ。」「メッセージの媒体としての辞書的なことばとは、ある意味で、現実を統括する目に見えない網の目である。常識であり、処世術であり、実型化された思考であり、そういうものとして支配する。『物語』とは、この無意識の網の目を打ち破る想像力のくさびなのだ。それはあくまで『語り口』=スタイルであって、語られる話ではない。」亜庭じゅん「結論 チェックメイトCOM―街にチェシャー猫を解き放て―」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)305P
  21. ^ 「発表される作品にぴったり並走しながら、いま、ここで、それが描かれ、読まれる意味を問いかける。それこそが亜庭じゅんの方法だった。」「現在のように、まんがや作家や編集者をめぐる情報や知識が整備されていない時代、客観的資料も少なく、ましてや勝手な読み解きではなく作品や作家にきちんと向き合った信頼に足る評論など、存在しないも同然の時代に、徒手空拳でそれに挑んだ。その意味では、本人の意図したことかどうかはともかく、必ずしも既成の評論や従来の定説を批判しようとしたのではなく、むしろいきなり定説になろうとした、といっていいかもしれない。」「亜庭じゅんの批評に特徴的なのは、『かくこと』と『よむこと』のせめぎあいから、状況と作品を語ろうとすることだ。つまり状況論であっても、状況を外在するものとしてではなく、内在するもの、あるいは読者の内面の外化というふうに捉えているように見える。」「こういうふうに、自己を語るようにまんがを語り得た時代があったのだということ。作品を対象として、突き放して腑分けするのでなく、作品とともに生きること。そのように志したとき、批評というその目は時に、まるで自分自身を問いつめ糾弾するかのように、厳しく、執拗になる。」村上知彦「亜庭じゅん、お前は誰だ」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)469P/470P/471P/472P
  22. ^ 「一九六〇〜七〇年代の学生運動時代をリアルタイムで生きてきた私世代にとっては、亜庭さんの文章は、その延長線上にあるように感じられたし……」「まったくもって熱心な読者ではなかった私自身、実は誰にも負けないぐらいに、『漫画新批評大系』主筆の亜庭じゅんさんを意識してたってこと。『漫画大会』へのアンチとして『漫画新批評大系』と『コミックマーケット』が産まれたように、私の中ではアンチ『漫画新批評大系』、アンチ『亜庭じゅん』がエネルギー源になってきたんですよね。ずっと。だって『造反有理』世代なんだもん。」「これから読みますよ亜庭さん。さあ、二千円持って『亜庭じゅん大全』買いにいくぞー!!!」藤本孝人「37年後の言い訳。または、当時何故私は亜庭じゅん氏の評論を読まなかったのか。」『漫画の手帖B録04』(漫画の手帖事務局 2012年1月22日)
  23. ^ 「私の理解では、亜庭さんの魅力は文章。運動系にありがちといわれればそういう文体なんですが、煽る文章でとにかくカッコイイ。亜庭さんについて知らない人に対して「当時のおたく界一のモテ(特に批評系男子)」と私は説明しています。私はほぼ接点がないにも関わらず2回ほどお目にかかる機会を得ました。なんとも魅力的な雰囲気の方で、自分の説明がまちがっていなかったと確信がもてました。/亜庭さんの影響は1970年代末以降のまんが批評のいたるところに認められます。けれども今となってはそれを追うことはほとんどできません。ここからは私の妄想も入ってくるのだけど、私が仮に1980年代前半にまんが批評の単行本の企画を持っている編集者だったら、亜庭さんにほぼ1番に依頼したと思います。1980年代前半までにコミケット参加世代が主体となったまんが批評本が何冊か刊行されました。まだ数人しかまんが批評の本を出していない時代です。亜庭さんはその数人に入ってもおかしくないどころか当然の存在だったと思います。」白峰彩子「亜庭じゅんさんについて」『備忘録』閲覧日2014年4月7日
  24. ^ 「それにしても今回ようやくわかってきたというか、色んな方に昔の話を聞いていると、迷宮の漫画批評家の論客といえば断トツで亜庭さんなんですよね。みんな絶対口にする」ばるぼら「対談 70年代までの同人誌を2010年代に読む」『20世紀エディトリアル・オデッセイ』(誠文堂新光社 2014年4月30日)149P
  25. ^ 「ぼくらは『批評』を、『作品批評』を採った。それは何よりもぼくら自身のまんがとの距離を再検証することを急務としたからだ。『僕はマンガが好きなんです!』と絶叫するだけでは、運動自身破産〔ママ〕することはCOMの経験で明らかだ。常にマンガに溺れてしまう自己をみつめ、『自分にとってマンガとは何であるか?』の問いを、くさびとしてうちこむ冷めた視線をもたない限り、運動は空転するだろう。」迷宮'75「読者欄/アリアドネの糸」『漫画新批評大系』創刊号(迷宮'75 1975年7月)48-49P
  26. ^ 「村上知彦のいう『ぼくら』はCOM世代でも全共闘世代でもない。自分がまんがにとらわれていると自覚したものたちが、同じくとらわれていると自覚したものたちを予感する時たちあらわれる幻のことだ。それはまんがにどれだけの夢を背負わせ得るかを自問する意志の共有であり、世代とは無縁のことだ。『黄昏通信』は、そうした意志がそれだけで自立し得た時代の終わりを告げると同時に、それでもなお、その意志を生き延びさせようとする現実的な態度表明なのである。村上知彦は、世代の共有世界の崩壊を知った上で、たとえ一人きりでも『ぼくら』を背負う気でいる。その回路こそ、まんがを読むことだ。」亜庭じゅん「まんが批評を斬る!!」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)306P
  27. ^ 「あえて『思想』という。それは彼らの価値体系の用語だからだ。ぼくらの『思想』としてのまんがを突き出す時、ぼくらは、初めてぼくら自身を取り巻く日常と正面から向き合う場にたつ。/では、まんがの思想とはなにか? 『少年』『少女』であることの全面肯定である。現実を知る以前にまんがが示した世界との全的関わりの断固たる希求である。実際のガキ時代がどうあったかは全くどうでもいい。一旦、現実を知った上で、価値として対象化された『少年・少女』をまんがは肯定し抜くのである。幼児退行症、ガキ願望等の矮小化に耳を貸す必要はない。それあればこそ、ぼくらは日常を常に越えようとしてきたのだからだ。一瞬とはいえ、ぼくらはまんがによって全世界の存在を知ったのであり、変容し操作し得るものとして、それを自己のものにしたのだ。この体験こそ、文学、映画を知っても、ぼくらがなおまんがと結びつこうとした理由である。正義感や、感傷的なやさしさ、そして、残酷なまでの世界のもてあそび、/――かつてまんがにかかれたことのすべてを、ぼくらは今、思想の名において受けとめ、精錬すべき時にいる。戦後まんがとは、史上初めて、『少年・少女』を対象として成立した、世界性を持ったジャンルだった。その意味は世界史的なものかもしれない。/70年代、まんがは日常化の底で、思想として徐々に目覚めてきたのだ。自己肯定に達した少年、世界を遊び場としてかしづかせた少女、それらが世代の枠をこえて得た数百万の読者こそ、その証左となるだろう。」亜庭じゅん「NEW・COMIC戦略教程――全世界ローラー作戦の開始に向けて――」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)328P
  28. ^ 「評論において当時の亜庭じゅんのそれは周囲への圧倒的な影響力を持っていたし、『迷宮』がまんが批評集団であることへの信頼は、彼が一身に背負っていたといってもいい。だからこそ亜庭じゅん調の評論を自分にも書けると僕や米やんが言い張った時に、米やんは『阿島俊』を名乗り、僕は『アニメ・ジュン』を名乗るということもあったくらいで、3人それぞれの対抗意識のバランスがうまくとれていたからこそ、『迷宮』の維持存続が可能であったのだろう。」霜月たかなか『コミックマーケット創世記』(朝日新聞出版 2008年12月30日)152P
  29. ^ 『漫画新批評大系』第1期 通巻1号「特集・萩尾望都プチ ア・ラ・カルト」(1975年7月26日) 通巻2号「特集・水野英子NO RETURN?」(1975年11月28日) 通巻3号「特集・パロディの地平から」(1975年12月20日) 通巻4号「特集・少年マンガエレジー」(1976年7月25日) 通巻5号「特集・少女マンガの光と影」(1976年12月19日) 通巻6号「特集・チェックメイトCOM」(1977年4月10日)
  30. ^ 「『マニア運動体論』六回の連載はコミックマーケットの開始と並行していた。『序説』と『第一回』が書かれた時点ではコミックマーケットは構想のみ存在し、姿を見せておらず、続く四回の連載はようやくコミケットが安定していく過程に重なる。『マニア運動体論』は暗中模索で走りだしたコミケットの初期、迷宮=コミケットの共通認識として機能した。亜庭じゅんは殆んど徒手空拳の状況でこの連載を書いた」「マニア運動体論 編注」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)477P
  31. ^ 「『迷宮』が次なるステップへと向かうための一つの区切りをつける号であった。だからこそここで、自分たちがまんがファン活動を行う原点となった『COM』を改めて見直しておくことは意味がある。僕などはそう考えたのに違いないのだが、特集巻頭の『朝の光の中でいましばらくの微睡みを貪るための方法論 その序説』で亜庭じゅんは、『COMを今問題にしなければならないというのも、COMがぼくらのマンガへの関わりの原点などだからではなく、無意識にCOMに原点を求めてしまうぼくら自身の弱さを拒否しなければなにも始められないからである』とそれを一蹴。加えてもう一編の『結論 チェックメイト!!COM 〜街にチェシャ猫を解き放て〜』において、『COM』をまんがそのものと重ね合わせたうえで、COMを越える可能性に言及している。」霜月たかなか『コミックマーケット創世記』(朝日新聞出版 2008年12月30日)164P
  32. ^ 「COMはその活動の起点である故に一度は正面から総括しておく必要があった。記憶の彼方に消えていこうとするCOMを曖昧なままにしておくことは自己欺瞞でもあった。COMに幻を見ていた自分自身を含む世代の不様を書いた痛切な言葉の連なりは、伝説と化そうとしていたCOMへの単純な懐旧の言や賛辞が多い中で、COMが読者にとって持った意味を率直に伝える数少ない文章でもある。」「朝の光の中でいましばらくの微睡みを貪るための方法論 その序説 編注」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)546P
  33. ^ 『漫画新批評大系』第2期 通巻7号「特集・SFとマンガと/三流劇画ミニマップ前編」(1977年12月31日)通巻8号「特集・はみだしっ子in4D/三流劇画ミニマップPart2」(1978年4月1日) 通巻9号「特集・まんが同人誌'78」(1978年7月29日) 通巻10号「特集・花の24年組・午前1時のシンデレラたち」(1978年12月17日) 通巻11号「創作特集・同人誌作家の新地平/小特集・斬る!!」(1979年7月28日)
  34. ^ 「『戦後少女まんがの流れ』は、1期での活動期間中に知遇を得た少女まんが研究者、コレクター等の史料提供と協力を得て連載開始が可能となった。本文は2期を通じた5回連載となり、共同研究が基礎となるため執筆名義は『戦後少女マンガ史研究会』とした。アンカーは相田洋(米澤嘉博)が担当した。連載は完結後大幅な加筆を行い『戦後少女マンガ史』のタイトルに纏められ、米澤嘉博のまんが評論家としてのデビュー作となった。」「戦後少女まんがの流れ 編注」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)186P
  35. ^ 「漫画新批評大系 第2期4号は一旦は78年12月17日に発行されているが、改訂版として翌年の4月に再発行された。この号は「総括・花の24年組・午前一時のシンデレラたち」と題して、24年組の特集を行なっている。創刊以来、精力的に取りあげてきた少女まんがの総括としての特集であり、同人以外に外部からも、中島梓、村上知彦、高取英に寄稿を依頼し、増山法恵にインタビューを行なっている。この時点での迷宮の総力を結集した号であったが、発行を優先して不十分な内容、編集となったための改訂版の発行であった。亜庭じゅんは、他の同人に原稿の全面的な手直しを依頼し、記事の入替え、レイアウトの変更を行い、全面的な改訂となった。常に不満を残していた内容の充実と、雑誌としての編集の不備を解消した号を出したいという亜庭じゅんの執念の漂う号となった。無論、自身のこの文章も改稿されている。」「総括・花の24年組・午前一時のシンデレラたち 編注」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)254P
  36. ^ 「迷宮の中で三流劇画、エロ劇画に積極的に関わっていたのは川本耕次、青葉伊賀丸、そしてぼくだ。川本がこの年の六月頃には『別冊官能劇画』の編集者となり、業界につながりが出来、迷宮と深い関わりのあった村上が編集に携わる『プレイガイドジャーナル』に企画を立ち上げるなどの動きは重なっていく。」米沢嘉博『戦後エロマンガ史』(青林工藝舎 2010年4月22日)223P
  37. ^ 『漫画新批評大系』第3期 通巻12号「特集・NEW・COMIC」(1979年12月23日) 通巻13号「特集・パワーストーリー」(1980年5月11日) 通巻14号「ルポ特集・新雑誌は何を考えているのか?/特集・スクリーンへ!」(1980年12月31日) 通巻15号「小特集・気分はもう戦争!」(1981年12月20日)
  38. ^ 「問題は、まんががどう変わるべきか、なのであって、どう変わりつつあるか?ではない。流行の後追いや先取りに精力を浪費している時期はすぎたと知るべきだ。『まんがはどこまで行けるか?』と問いをたてたなら、『まんがはここまで行かなければならない』という、読者の側からの、巨大で豊かな観念世界の答を出すべき時に、ぼくらはいる。実体を持たないものを語るのは虚しい、としたり顔で言ってはならない。そんなことはとっくに知っている。だが、新しいまんがを! と言い切るなら、まんがに求めるものを明らかにすることこそ、批評の責務である。『どこまで行けるか』と問いを立てた時、読み手は無限への扉を押し開けた筈だ。だとすれば、それに耐えるのは、押し開けた者自身の責任である。それを回避するなら、ニュー・ウェーブなり〝新しい流れ〟なりを語る言葉は、また一つファッションの波をたてるに終わる。」「語られねばならないのは、全体である。まんがが、今日まで築き上げた全歴史と、ぼくらの求めるものとしての不在の未来が交錯する一点、そこにこそ、NEW・COMICはたち現われる。〝新しい流れ〟とは、70年代を通して圧殺されてきた、この不在の未来が、とりあえず放った否定の声である。それは兆しではない。〝新しい流れ〟を、否定媒介とし、のり超えた所にこそ、NEW・COMICは明らかになる。〝新しい流れ〟の鋭さは全否定の鋭さであり、それは、70年代まんがの総状況を切り裂く。」亜庭じゅん「NEW・COMIC戦略教程――全世界ローラー作戦の開始に向けて――」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)309P
  39. ^ 「このユニークな批評集団を僕は七七年冬、第七回目のコミックマーケットに参加して知ることになりました。当時、彼らは『迷宮'77』と名乗っていて、第二期に突入した時期の『大系』を購入、『COM』亡きあと、つまり七〇年代から八〇年頃にかけてのマンガ・シーンの波頭で、『迷宮』は批評とパロディを勇猛果敢に発表していました。『大系』を読んでいれば、マンガの『今』が見えたのです。」赤田祐一「『ぐら・こん』は、ちょっといい夢だった(中編)」『スペクテイター第25号(COMの時代 第四部)』(エディトリアル・デパートメント 2012年6月5日)147P
  40. ^ 「『じゃ、同人誌だけを売買する場所を作ればいいじゃない。費用は参加するサークルに頭割りすれば、こっちはそんなにかからないし、やることだって、連絡と宣伝だけだから、手間はかからない。名前はコミックマーケット、略称コミケット!』/明石さんの一言から、ここまで、おそらく15分はかかっていない。天啓のように、一瞬にしてコミケットは誕生した。いや、ふりかえって見れば、その瞬間は、20年の時を超えて、現在に至る全てを胚胎していたと言ってもいい。何の迷いも逡巡もなく決まった、“コミックマーケット”という名称。このマーケットというネーミングがすべてを決めた。」「他のメンバーがどうであったかは知らない。しかし、少なくともコミケットを運営する主体を、コミケット運営委員会でも、実行委員会でもなく、『コミケット準備会』とした時、その底に、コミケットなるものは、いつまでも手の届かない逃げ水になるという、予感は共有していたろう。」亜庭じゅん「明石さんへ――」『コミケット20's』(コミックマーケット準備会 1996年3月17日)420P
  41. ^ 「偶然にもこの時“迷宮”は、マニア運動体論で希求した開かれた自由な場を、マーケットという形で手に入れようとしていた。思想的な出自や『COM』体験からすれば、皮肉な結果ではあるとしても。では、その場に僕らは何を望んだのか。“自由な場を与えられた描き手に、なお信頼をつなぎ止めていた”と、今はいうに留めよう。たとえそれが自己投影だとしても、相当の可能性を見ていたのは間違いない。/そしてマーケットという言葉にはいま一つ、広場としての含意もあることにも僕らは気付いていた。人が出会い、交わり、新たな関わりが生まれる解放された空間。空間自体が何かを生み出すようなエネルギーをはらんだ場。米やんはむしろこちらのほうに惹かれたようだった。“アゴラ”というタームが市民権を得始めた当時、米やんが見ていたのはそうした場であったような気がする。後にコミケットを“ハレの場”と位置づける米やんの認識の萌芽は、もうこの時に胚胎されていた。」「とにかく同人誌の売買の場という単純な発想から、一気にあそこまで構想が展開したことの背景には、マーケットという設定が中途半端なモラリズムという枷を外したためであることは間違いない。」霜月かたなか『コミックマーケット創世記』(朝日新聞出版 2008年12月30日)133P
  42. ^ 「『コミックマーケット準備会』設立に至った経緯は、亜庭じゅんによれば次のようになる。/『マジに開催のことを考えなければならなくなった時、“迷宮”はちょっとしたジレンマに陥る。コミケットの運営主体をどうするかという問題であった。理論上はコミケットの運営は参加者自身が行なうべきだという点で異論はなかった。だが、数々のイベントを批判的に検討してきた結果から、組織は必ずと言っていい程硬直するという認識も共有されていた。“迷宮”が主催ということで立てばいいという話ではない。理想としていたのはサークルの自由連合による運営だった。だが、運営主体が暴走し始めた時のセーフティネットをどう担保するか。/そこで僕らはある姑息な手を打った。コミケットの運営を“迷宮”とは別組織にして、サークル主体に見せながら、実体として“迷宮”が運営を担うことで当面はそのポリシーは維持する。将来的にこちらが信頼できる人材が出てくれば、そちらに徐々に運営を移行していく。平たくいえば、裏で糸を引こうという発想である。準備会という名前にはそんな隠れた意図もないわけではなかった。“迷宮”はコミケットのさらに先を見ようとしていた。しかしそんなはかりごとはうまくいくわけもなく、ひょっとしたらと期待した準備集会でも、参加者はコミケットのイメージすら判然としない状態、とても運営までは頭が回らない。こちらも海のものとも山のものともつかない状態であってみれば、当然の結果ではあった。』」霜月たかなか『コミックマーケット創世記』(朝日新聞出版 2008年12月30日)143P
  43. ^ 「表向き、コミケットはサークルのもの、迷宮がそれを主催するのは僭越であるという口実はあった。同時に迷宮以外には、ついにコミケットをその意味づけまでも含めて担いきる存在はないだろうという自負もあった。この二点のせめぎ合いから、出てきたのが『準備会』という聞き慣れぬ名前だったのだ。それは一回ごとのコミケットを運営するという以上に、毎回々々のコミケットの過程の果てに、幻のコミケットをいつか実現させるための捨て石だという自覚の結果であった。」亜庭じゅん「明石さんへ──」『コミケット20's』(コミックマーケット準備会 1996年3月17日)420P
  44. ^ a b 「『迷宮』の活動の一環としてコミケット準備会っていう会をでっちあげました。これも『迷宮』だというとうさんくさいと思われると考えて別の名前を作ったんですが、なんのことはない、同じ人達がやってたわけです。原田さんはまだ正式に代表にはなっていなかったんじゃないかな。多分2年目からですね。たしか何かで揉めたんですよ。それであにじゅんがじゃあ今後は役割を決めようと言い出して、その時にじゃあ原田くんがコミケット担当ねと。当のあにじゅんは『新批評大系』の担当を自認して、私は漫画大会告発の担当となりました。別にあにじゅんが無理矢理任命したのではなく、事実上そうなっていたのをはっきりさせたと云う感じです。原田さんは当時から誰よりもマジメにコミケット運営に努力していて、誰が見てもこの人が担当者だよなって感じでした。」式城京太郎「『迷宮』と初期コミケット」『20世紀エディトリアル・オデッセイ』(誠文堂新光社 2014年4月30日)161P
  45. ^ 「なかなかヤバい話にはなるんですけれども、なぜ原田氏が代表になったかということなんですが、見ていただくとわかるとおりに、一番誠実そうに見えるんですよ(笑)。僕はたぶんそれはダメだし、米やんもそういう意味じゃあ当時はまだちょっとピリピリしてたとこがあったし。まあ米やん自身は一番若かったということもあって…それとまあ上に二人年上がいるとなると、なかなかこう前には出られません。でまあ、やっぱりこういうコミケットみたいなイベントの場合、露骨に言います、同情を買うようなタイプが一番いいと(笑)。それは俺と米やんの共通見解よ。原田氏だったらみんなが同情してくれるだろうと。ということで、まあ人格的に原田氏が一番ベストなんじゃないかと。でまあ『いちゃもん』の漫研リストを作ったのも彼ですし、そういうようなことを含めて原田氏が代表には一番ふさわしいだろうということで、代表になったというのが事実関係です。」亜庭じゅん「コミケ誕生打ち明け話」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)738P
  46. ^ 「ちょっと話戻しますけど、先に原田くんのほうが『学生運動が…なんたらかんたら』言ってましたけど、あれは社会性っていうよりも、むしろ当時のものでコミケットに通じるものがあるとしたら、在学当時は多くの大学、あるいは高校でも、机や椅子でバリケード作って、封鎖をしたんです学生が。で、そのなかがなんだったかっていうと実は何もなかったんですけれども、気分だけは『ここはおれたちの空間、おれたちの場所』みたいな、『解放区』という言葉がたぶん一番的確だったんだろうと思います。そこで特に何かをやったわけではないんですけれども、たまたま京都のほうでは、京都大学の西部講堂という…物置の掘っ立て小屋みたいな講堂があって、そこでですね、当時のでいうと『アンディ・ウォホール(の実験映画)』とか『頭脳警察』というバンドとか、あるいは『状況劇場』…赤テントですね、唐十郎の。ああいうものをとにかく手当たり次第にやってたと。なんで、ある種、解放区のなかで自分たちの見たいもの、やりたいものをやるというようなそのような文化が、学生運動のなかで定着していったと。その感覚っていうのはコミケットのなかにも…まあここで話せればと思いますけど、残っていただろうと。」亜庭じゅん「コミケ誕生打ち明け話」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)735P
  47. ^ 「一つの意識として、コミケットは、七十年の敗北の再生という命題を抱えていたし、趣味を基盤とした解放区という位置づけがなされてもいた。自由な表現が許される場とは、おのずから自由に表現できない場と対立していくことになる。拡大していくコミケットは、つまり解放戦線の拡大でもありうるのだ。もちろんそうしたことが語られることはなかったが、マンガは『ぼくら』が手にした最高の娯楽であり、自己表現であり、その無限の力はあらゆることを成し得ると信じていた時代でもあったのだ。」米澤嘉博「コミケット20年を振り返って」『コミケット20's』(コミックマーケット準備会 1996年3月17日)417P
  48. ^ 「あれは私が高校2年生の時だったと思う。当時、漫画ばかりを描いていただけの暇してた高校生にとって24〜25位の兄ちゃんの集まりは「すごく年上の人ばっかり」という印象だった。/その年上の兄ちゃん達が『コミックマーケット』という同人誌を売ったり、買ったりするだけのイベントを開くというのだ。ついてはそこで少女漫画のオークションもやるからお前、売れ。/そう言われて私は当日アラビアンナイトの格好をしたまま古い少女漫画本を次々と売っていった。何が何だかよくわからない状態である。彼らはどこかの漫画大会でなんとかという漫画が10万円で売れたのがおかしい。そんなに高値で売ったら漫画が別のものになるから安値で売ってくれとも言った。/子供だった私はそんな兄ちゃんたちが漫画という世界に生きてる人達なんだと思って、尊敬をしたものである。私もこの人達のように漫画にポリシーをもって生きなきゃあかんぜと燃えたものだ。/しかし、その後芝居の世界に入ってしまったのでコミケのことはそこまでしか知らない。当時、尊敬していた兄ちゃん達の大半はどこかへ行ってしまい、何人か残った人は物書きになっている。そしてコミケは私がかかわった初期のわずかな間を過ぎると巨大化していき社会現象にまでなっていた。/私にとってはまるで文化祭の延長のような会場で、反骨精神の旗の元に集まったバカの集団というイメージしかない。儲けることなんか何にも考えていなかったあの人達。今のコミケで一攫千金を企む若造を見て『まったく今の若いものは。』とため息をついているのだろうか。/いわゆる60年代の若者だった彼らに影響を受けた私は今でも少し理屈っぽいままだ。彼らはコミケを抱えてどこまでいくのだろう。妹分の自覚がある身としては気になるところだ。」わかぎえふ「作家アンケート」『コミケット20's』(コミックマーケット準備会 1996年3月17日)411P
  49. ^ 「サークルの総意などというものは実際にはありはしないということは最初から分かってはいたが少なくともその方向に努力するという姿勢を示すことで、その大義名分は維持し続けた。そのために事前集会、拡大集会、反省会はコミケットにとって重要な位置を占めた。全ての参加者が平等であり、仲間が作り上げるアマチュアの自由な場で、その場だからこその新しいまんがが生まれる。そこでは単なる読者でさえ創作への積極的な協力者となるだろう。」「子供っぽい理想論、きれいごとだという向きもあるだろうが、理想論を掲げないで誰が時間を使い神経と労力を刷り減すだけのことを好き好んでやるものか。」「ぼくらはそういうことをやっているという自覚は共有していた。大人の現実論を子供の理想論で跳ね返す場所がいまここにあり、回を重ねる毎に参加者は増え続けていった高揚感もあったのだと思う。」高宮成河「あの頃……雑感」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)25P
  50. ^ 「コミックマーケットは準備会が作るものではなく、参加サークルと一般参加者がみずから作り上げるものだからだ。そんな大原則に忠実にやってきたつもりの僕としては、目の前にあるコミックマーケットがみずからの望むものでないのなら、自分が身を引くしか方法がない。そう考えて第12回開催以前に、もう決心を固めていたのである。今から思えばそんな考えがどれほど未熟だったかいくらでもあげつらうことができるが、とにかく僕はそういって、留任を求める周囲からの意見をすべてはねのけてしまったのだ。そして辞任する以上は、それまでのファン活動のいっさいからも離れ、『迷宮』を中心とする仲間とも決別する覚悟だった。」霜月かたなか『コミックマーケット創世記』(朝日新聞出版 2008年12月30日)183P
  51. ^ 「(第1回) 当時ね、今(質問者のコミティア代表・中村公彦氏が)『創作サークル』って言いましたけど、だいたい創作サークルっていう分別さえしてなかったっていう話なんで、だから原田くんが『こんな状態では僕は…意図と違う』って言ったのは、創作サークルってけっこうあるんですよ、確かに。ただ一番面白かったのが(当時『宇宙戦艦ヤマト』のパロディまんがを描いていた) 水谷潤だったりするんで。で、彼(原田) が言ってるのは、僕らは『ぐら・こん』なりCOMの延長上に位置付けられるような作品が思ったほどには出てこなかったからだな、というふうには納得してます。(参加してほしくないサークルとして) 個人的に『あんなヤツらは…』というのはあったけれども(笑)。」亜庭じゅん「コミケ誕生打ち明け話」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)740P
  52. ^ 「自分たちがコミケを始めたのは、商業誌とは違う世界をつくりたかったから。それがいつの間にか商業誌の人気作品のキャラクターを使って、自分たちが好きに描き変えてしまう二次創作が出てきた。それが一部だったから良かったのが、だんだん主流となって数が増えていく。そうして同人誌でしか読めない作品がどんどん減っていったこともあって、僕はコミックマーケットの代表を離れました。」「コミケ第1世代の僕の見方では、同人誌の一次創作が少数派になった段階で『商業誌に負けたな』と。商業誌をさらに盛り上げるための同人誌という流れができてしまった。僕らのような古い世代から見ると、同人誌だけでしか表現できない世界が消失したのはとても悲しかったです。」電ファミニコゲーマー (2023年8月31日). “今の漫画編集者は“編集権を放棄”している!? 鳥嶋和彦氏×霜月たかなか×筆谷芳行『同人誌vs商業誌』白熱のトークバトルから見えてきた漫画業界の過去・現在・未来”. 2023年9月16日閲覧。
  53. ^ C13のメッセージは準備会スタッフとして米澤嘉博が「YY」のペンネームで書いているが、メッセージには「長い間スタッフとしてやってきた原田央男氏がコミケット12をもちまして、準備会から離れることになりました。」と簡単に記され、「代表」については全く触れられていない。『コミックマーケット30'sファイル』(有限会社コミケット 2005年7月25日)76P
  54. ^ C84以降の『サークル参加申込書』「コミックマーケット年表(抜粋版)」では1979年のC13より「代表に就任」と記載されている。しかし、『コミックマーケット30'sファイル』では1980年就任とあり、矛盾する。またC13時点で米澤が代表になったことを示す記録は公表されていない。
  55. ^ 「問題は二つ。一つ目は『お遊び』の場に変質しつつあったコミケットをどう考えるか。二つ目は数の増加に追いつかなくなり破綻しかかっている運営をどうするかだった。コミケットは決してお遊びの場を作るために始めたわけではなかった。遊びは否定されるものではないが、あくまでサブの位置にあるべきものだった。コミケットの全体が『まんがで遊ぶ』ことに覆われてしまう危惧とともに、他方ではそれが何故悪いという気分も強まりつつあった。早急に改めて方向を確認し、体制を組み直す必要があったが、しかし、米やんは何の手も打とうとはしなかった。このときコミックマーケットは前に行くことも後ろに退くこともできず、流されるままに開催を続け、立ち竦んだまま、遂には沈没してしまうことも危惧される状態だった。」高宮成河「あの頃……雑感」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)24P
  56. ^ 「米やんが二代目になったのは他に適当な人間が居なかったということが理由だったが、受けた米やんは決してそれを歓迎したわけではなかった。原田の辞任は唐突なものだったし、困惑しながらの就任だったことは傍目にも分かった。」「あの時期の米やんには酷な言い方になるけれど、それでも少なくとも準備会の内部では危機感を共有し意思統一を計ることだけはしておかねばならなかったが、その部分でも米やんはネグった。亜庭じゅんの言葉で言えば『米澤は半分投げていた』ということになる。米やんのこの無責任にも見える姿勢が、遂にはクーデター騒動を引き起こすことになる。クーデター派から見れば米やんは何も決められない独裁者に見えていたのかもしれない。」高宮成河「あの頃……雑感」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)24P
  57. ^ 「当初のスタッフ(ロートル)と若いスタッフ(主に警備)の間で、運営に関して対立が起きるようになり出していた。きっちり警備し、管理するべきだという派と、自主性に任せるべきだという派で、それはマンガとアニメ系の対立も内包していたのかもしれない。/言ってしまうなら、そこで代表は、若いスタッフから、自分たちをとるか古いスタッフをとるかと、決断を迫られたわけで、どちらもキルなどということのできない性格上、ウヤムヤにしていたところ『クーデター』を名乗って、事務や送り先の変更を秘密裏に行ない出したのがきっかけとなって、緊急アピールの発行となった。」米澤嘉博「分裂騒動の真相」『コミケット20's』(コミックマーケット準備会 1996年3月17日)145P
  58. ^ 「その頃は米沢さんはコミケにそれほど深く関わってる印象はなかったですけどね。米沢さんは当時、まだ明治大学に籍を残しながら、すでにフリーの編集者兼ライターとして活躍されていて、『SFファンタジア』という学研のムックや、『朝日新聞』の漫画時評などの仕事に取り組んでいました。それは無記名でしたが、ですからコミケというとむしろ、亜庭さんや、当時米沢さんと共に行動していた橋本高明さん、ベルさん、迷宮の他のメンバーの方々が頑張ってる印象があります。霜月さんは、すでに準備会は離れていました。」赤田祐一「対談 70年代までの同人誌を2010年代に読む」『20世紀エディトリアル・オデッセイ』(誠文堂新光社 2014年4月30日)149P
  59. ^ 「コミック・マーケットはまんがの幻影を売り物に肥大化し、何も為さないまま妙な権威をすら帯び始めている。だが、我々が望んだコミック・マーケットとはそんなものではなかった筈だ。それはサークル同士のまんがへの志によって有機的に結合した、もう一つのまんが状況=展開の契機を備えたメディアになるべきものであった。/我々はそうしたものとしてのコミック・マーケットを、もう一度結成しようと思う。コミック・マーケットがメディアとして機能しないなら、我々の手で創るだけの話だ。」「やることは大して変わりはしない。だが、我々の求めるのはお祭り騒ぎではないのである。作品へと昇華されたまんがであり、行動に結集されたまんがの意志なのだ。」亜庭じゅん「夢の明日・明日の夢 迷宮緊急アピール」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)306P
  60. ^ 「この頃、創作系の漫研の連中も新しいのが出てきたし、そういう流れの中で本来の同人誌、創作系だけで、もう少し小さくこぢんまりやっていこうじゃないかみたいな話も出始めて、じゃあその大コミケと小コミケをやって、定期的に、まあ2ヶ月に1回小コミケとして、年2回くらい大コミケをするのはどうだろうとか、コミケットをどうしていくかってことでいろんな方向性が語り合われた時期でもある。/結局コミケットていうのは大きくする。来る人間を全て受け入れていく。という話になる。耐えられるまで耐えようと。/そのかわりパロディもエロチックなものも、アニメもその他も全部なんでも来れる場所にしていこうと。そうすると、本来の同人誌とか創作マンガにとってはこれじゃいかんという話で、じゃあ小コミケをMGMという形にしようかと……。」米澤嘉博「代表インタビュー2」『コミックマーケット30'sファイル』(有限会社コミケット 2005年7月25日)95P
  61. ^ 「少なくともコミケットが仮に潰れたとしても、別に創作同人誌即売会が存続していれば、その部分だけでも救い出せることになる筈だった。あの時期のあにじゅんの取れる方法としては率直で妥当なものだったし、MGMの意図するところは米やんも理解していた。『米やんはMGMはコミケットの保険だと言ってたよ』これは米やんの死後に、米やんの言葉としてベルから聞いた。」高宮成河「あの頃……雑感」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)26P
  62. ^ 「その後両者間での話し合いは、連絡ミス等で遅れたが、スタッフのほとんどを集めて開かれ、コミケット19を開くことが急務である旨米澤氏から提案される。川崎市民プラザの使用について、その為の条件をクーデター派が出し、それを飲まない場合、川崎市民プラザは使用できない。こちらは別会場を借りている事が示される。/米澤氏の19回めでの引退、17・18回めの会計公開をTELで条件として提示し、それに対し会計公開は新聞で行なう予定であり、20回めでの引退を考えている旨の答えがある。クーデター派はそれで考慮してみると返事をした。が、その前日に、川崎市民プラザでコミックマーケットを開催する旨の申し込み書がコミケット準備会名でサークルあてに発送されていたのだ。」コミケット新聞2号「コミックマーケットに内紛か!!」『コミケット20's』(コミックマーケット準備会 1996年3月17日)147P
  63. ^ 「このアピールの中で米澤君は、それまで一部の人間にしか知られていなかったクーデター騒動を、自分の手で公開すると同時に、クーデター派の人間を名指しで非難しました。名目は、サークルの混乱を防ぐため、ですが、アピールの内容を見る限り、その実質は、クーデター派への不信をサークルに植えつけ、彼らの動きを圧殺しようとしたものです。これまで、スタッフとして扱ってきた人間をスタッフでないと言い、自ら責任をとるべきであった警備の問題をホッかむりして『自称』警備隊長におっかぶせています。このアピールによって、コミケット・クーデター事件は力対力の争いになってしまいました。」「米澤君は緊急アピール送付以前二週間以上に渡って、自らは積極的にクーデター派と会おうとしなかったばかりか、コミケット準備会の他のスタッフを集めての話し合いの場すら設けませんでした。それを怠った上で、非常・緊急の手段としてアピールを出したといわれても釈然としないのは当然でしょう。それどころか、二人の人間の社会的生命さえ葬りかねない文章を、誰に相談するでもなく、独断で六〇〇以上のサークルに向けて出したのです。/こうした行為は、いかなる意味でもコミケット理念である自由・信頼に反するものです。迷宮がファン活動に対して言ってきたこと、述べてきた事は、まるっきり違います。権力を権力として行使することに対して、自由な個人の連合体である迷宮は、はっきりとその途はとらないとくり返してきた筈です。また、米澤君が出した第二のアピール中、コミケット・スタッフも私生活があり、そのためにコミケット運営に多少ルーズな面も出ても仕方がない。むしろそこにこそアマチュアとしての本意がある旨の記述がありましたが、このような泣き言を迷宮は漫画大会を批判する中で、否定しています。アマチュアであろうとなかろうと、一端、公的な立場を選んだ以上そんな事は理由になりません。作品の評価にプロ・アマを問う必要がないように、コミケットの運営もアマチュアだからといって、いい加減であっていい訳がないのです。そこの甘えを、少なくとも意識の上で切り捨てた所に迷宮の出発点の一つはあったのです。」亜庭じゅん「コミケット・クーデター事件について・アピール」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)599P
  64. ^ a b とは言え、コミケットを「ムーブメント(運動)」とする自己規定はその後も残り、2012年12月開催のC83までは「元々、ムーブメント、趣味の活動として始まったコミックマーケット」(各回ごとの『カタログ』「準備会スタッフについて」)、「一つのムーブメントとして自らを規定します。」(各回ごとの『サークル参加申込書セット』「コミケットの理念と目的」)といった言及があった。しかし、2013年8月開催のC84からは「ムーブメント」の文言が全く消え、理念として「(自由な表現の)場」「ハレの日」としての機能がより強調されるようになった。
  65. ^ 「米やんが開催すること以外の全てを棚上げにすることに踏み切れたのは、同人誌独自の新しいまんがというコミケットの目的として掲げてきたことを、それに特化したMGMが引き受けていることもあっただろう。MGMがあることで、自分はお祭り騒ぎにコミケットが変質していくことに目を瞑り、自由にファンの遊びに付き合うことができるようになる。」「コミケットの代表交替、MGMの開始、クーデター騒動、晴海への移動と続く、79年から81年までの2年間の慌ただしい推移の間、自分達で作り出してしまった現実を前にして、改めてその底流で問われていたのは、『同人誌即売会とは何か』そして『自分は何故即売会を開くのか』ということだった。」高宮成河「あの頃……雑感」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)27P
  66. ^ 「単なる売買だけではなく、同人誌を通じたコミュニケーション、出会いはもちろんのこと人と人との出会いも場の機能に含まれています。このことが、コミケットを、マンガ、アニメファンの社交場にしているのかもしれません。/お祭りとしての性格もそこから生まれて来るでしょう。「祭り」とは日常の中に一日現われてくる『ハレ』の日のことです。祭りに参加する者達は、その祭りをより面白く、よりすばらしい物にするために、祭りと祭りの間の日常を準備期間にしなければならないと思います。云うまでもなく、それはサークル活動であり、個々の創作活動のことです。祭りをいかにすばらしい物にするのかは、参加するサークル、個々人の問題でもあるのです。」米澤嘉博「コミック・マーケット設立主旨 コミケットマニュアル」『コミケット20's』(コミックマーケット準備会 1996年3月17日)317P
  67. ^ 「コスプレやパロディといった手段を通して彼らは(全員ではないにせよ) つかのまフィクションの世界の住人となり、祝祭のなかで自己は忘れ去られる。しかしそれは迷宮が『マニア運動体論』の『序説』において、『僕等は僕等の内側にマンガを一つの別な空間=世界として持っているが故に『マンガ世代』なのであ』ると規定したこととは、似ているようで天と地ほどの開きがある。『僕等』のなかの『マンガ』世界は自己と対峙するものとして存在し、それを楽しむ客体とするため『言葉』をもって捉えることが『僕等』の採った方法だったからだ。身も蓋もない自己の没入など、自己放棄となんら変わりがない。」原田央男「MGMに参加したこともないくせに…あるいは亜庭じゅんについて」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)748P
  68. ^ 「(ぼくは)創作まんがを中心に小さなマーケット(MGM)を開きました。これが非常に空いています。だから?というような世界です。そこではこういうコミケット的な環境というか熱気というか、そういうものは、生まれ得ませんでした。別なものはあるとは思います。自画自賛になるかもしれませんけれども。ただ、それはあくまでコミケットが持っている、もの凄くなにもかも溶かし込んでしまうみたいな、ま、コミュニケーションの非常に大きな力、それはどこまで真摯なコミュニケーションであるかは、ぼくは疑問に思っていますけれども、確かにそこでもの凄く仲間意識ができるということ、その力はなかったです。つまりコミケットが今持っているジレンマというのは、一つには、数が今のコミケットの楽しさというか面白さというものを保証している、そこの部分をどうくぐり抜けていくかが準備会にとっても、おそらく参加者にとっても一番大きな問題だろうと思います。」亜庭じゅん「亜庭じゅんの発言 1981春・コミックマーケット反省会」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)22P
  69. ^ 「基本的に会社は『コミックマーケット』という集会に事務所、機材、倉庫、連絡機関などのサービスを行い、コミケットは会社に対してカタログ制作の為の情報を整理し、与えているという関係だと考えて下さい。ただ、この会社はあまり営利を目的としていない性格があるため、様々な問題をはらんでいます。」米澤嘉博「即売会と会社と準備会と経費について」『コミケット20's』(コミックマーケット準備会 1996年3月17日)329P
  70. ^ 「なぜこの会社ができたかっていうと、それまで一般参加者に向けて配置図とサークルが入ったやつをただで配っていたんだけれども、コミケが大きくなって、かなり小さい字でA3版の両面にしても入りきらなくなったんで、どうするかって話したときにカタログにしようって。」「しかもこれが8000とか1万部近く売れるから、売上が200万で、印刷原価引いても何十万か残っちゃう。そうすると税金の申告がまずいだろう、どうするかって話になって、これは会社にして申告するしかないと、あともうひとつはコミケットへの問い合わせが非常に多かったんだけど、電話で問い合わせを受けられる場所が無かったんですよ。その頃は一般からの問い合わせも含めて全部個人で受けてた。しかもアパートの共用電話だから非常に問題が多い。これはいかんということでじゃあ会社にしてそういう窓口を設けようと。」米澤嘉博「代表インタビュー3」『コミックマーケット30'sファイル』(有限会社コミケット 2005年7月25日)125P
  71. ^ 「コミケットはアマチュアの『ボランティア』がやるものではなくなってしまった。もちろん、準備会の方では、コミケットを主催・開催する準備会と会社は別ものと言っているが、同じ人間がやっている以上、それは、口実ととるしかないだろう。はたで見ている限り、コミケットは明確に企業として歩み出したと言うしかない。」「企業化のメリットというものは確かにある。少なくとも、対外的な折衝では、通りはよくなるだろう。だが、伝えきく企業化の理由というのが、〝税金対策〟だというのなら、それは、ちょっとおかしい。〝税金対策〟が必要なほどにコミケットが利潤をあげているのなら、まず第一の対策は、利潤減らしである筈だ。それをせずに会社化へ走るのは何かが間違っているというしかないだろう。」「大局的に見れば、コミケットの方向は、企業化へと向かっていくものであることはわかる。」「だが、問題は、このプロセスが殆んど秘密裏にと言うか、オープンな形で展開されて来なかったことにある。コミケットの上の方で何やら、いつの間にか、決まり、動き出してしまったというのが実情である」「二言目にはサークルが、参加者が、というコミケットの甘いせりふと、実行段階での、独裁的な突発性、もっとロコツに言えば、下のことを無視した、二枚舌的やり方が、昨年問題になった、コミケットの退廃と密接にかかわっているのではないか?」「少なくともコミケットの会社化という今回の一事は、たとえば、このことによって公然とコミケットで食っていく人間が登場し得るという余地を与えたことだけでも、コミケットが掲げて来た理念の再検討を迫られる質のものである筈だ。」「即売会で食っていこうなどと考えるヤカラは甘えているという以上に、意図していようと、いまいと、奉仕者ヅラをする限り、詐欺を働いているのと同じだと、ここではっきりと断言しておこう。」亜庭 じゅん「SHASETSU 即売会のまわりが、どーにも生グサくなってきた…」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)669P
  72. ^ コミケットは3共同代表制に移行した後の2013年8月C84より、理念から「非営利」を削除した。
  73. ^ 川崎市民プラザでの開催は83年秋までの一年半だった。MGMは以後会場を川崎市中小企業婦人会館に移しそこに定着するが、「通常」のMGMと並行して、テーマを設定した「特別版」MGMを不定期に都内の産業会館で開いた。
  74. ^ 「ミニ・マーケット・プログラム1号で、ぼくは、この運動の最終的な目標を、全国的な同人誌メディアの設立におくと書いた。それ自身、特にMGMに固有のものではない。迷宮が、コミック・マーケットを開始した時点で、即売会のはるか彼方に展望していた目標である。むしろ、コミック・マーケットが、自らカオスとしての『場』に居直り、そこに自足し始めたからこそ、ミニ・マーケットという形で同人誌メディアへのベクトルを引き受けざるを得なかったと言える。」亜庭じゅん「あの亜庭じゅんがMGMを語る」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)591P
  75. ^ 「現在『マンガ世代』とはそのような自己を没入しうる者であり、オタクとも呼ばれる彼らが主役として迎えられる状況をコミケが作り出してしまった。だが『そういう場を最初に作り出したのはおまえたちではないか』と言われれば、全面降伏はしないまでも迷宮に立つ瀬はない。/しかし亜庭じゅんであれば、話は別だ。迷宮の名前でMGMを主催し、『これこそが迷宮のやろうとしていることだ』と言えば、数のうえではどうであれ、迷宮=MGMとして『迷宮がやろうとしたのはコミケではない』と言い切ることができる。つまりコミケに対して迷宮が裏切ったのではなく、迷宮に対してコミケが裏切ったというわけだ。もちろんそれを言うために亜庭じゅんがMGMを始めたわけではないし、MGM自体コミケを批判こそすれ、敵対するものではなかったが、迷宮の始めた運動を具現するものとして、MGMが存在した意味は少なくない。実体に即してみても、初期のMGMは亜庭じゅんみずからによる『マニア運動体論』の実践であったし、MGMの活動とはまさしく迷宮の活動であった。困難を抱えた小さな運動であっても、その意味においてMGMは、コミックマーケットに対して互角に屹立する即売会であったということが可能なのである。」原田央男「MGMに参加したこともないくせに…あるいは亜庭じゅんについて」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)748P
  76. ^ 「コミケットはもはや趣味でやれる範囲をこえている。しかもなお、『趣味』でやらねばコミケットではないだろう。アマチュアでもプロでもない第三の場を創ること。『同人誌』でも『商業誌』でもない既成概念の転倒。人が人と作品を通して媒介される場――コミケットの道は本来ここにあった。スタンスは、『創る』の一点を軸にしていた。プロもアマもでは決してない。プロでもない、アマでもない、否定形を通しての未来。それがコミケットの視線の行く先、見すえた焦点であった。それを見つづけるのは、『趣味』かもしれない。そして、この視線を、『プロもアマも』に移行させるのは、はっきり言って悪い趣味である。その『趣味』の悪さが、コミケットをダメにしたのだ。」亜庭じゅん「コミケットは趣味が不自由なのである」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)634P
  77. ^ 「そしてコミケの誕生以後、同人誌即売会の普及によって創作同人を取り巻く環境は一変。作家と読者をつなぐ出版社と取次会社のシステムとは別に、即売会(や同人誌専門店)が作り手と受け手とをつなぐようになり、まがりなりにも創作同人が作家(プロとかアマとかではなく)になりうるサイクルが成立する。しかしファンクラブから二次創作サークル、コスプレイヤーまでもが押しかける同人誌即売会の盛況のなかで、そのような創作同人はむしろ少数派にとどまり、同人誌即売会の創出を画策した『迷宮』の目論見は、肝心要の部分においてはぐらかされることになった。」原田央男「まんが同人活動と『日常』」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)32P
  78. ^ 「私が同人誌活動をはじめたのは70年代の末から。いまでこそ漫画ファン以外にも知られ新聞、テレビなどでも報道される同人誌即売会だが、当時はごくわずかの知るべき者たちのみが知るイベントだった。/なかでもMGMは創作漫画の同人誌だけの即売会で、規模は200サークルちょっとと小さかったものの会場の熱気がどんなものであったか伝えるだけの文章力がないのがもどかしい。その代表者が亜庭さんだった。コミティア創立時にカタログ担当のスタッフだったとき、インタビュー記事のために江古田の喫茶店で2時間ほどお話を伺ったことが忘れられない。」山川直人「亜庭さん」『地球の生活』閲覧日2014年5月2日
  79. ^ 「古山が一番のってた時期ってのは、MGMを川崎市民プラザでやってたときじゃないかな。彼の『ヤッターペンギン』をはじめ『ジュリーがライバル』『御遊戯』『USHI』とか、あの辺の本がボコボコ出てきて、何かおかしなことが起こるんじゃないかって気がしたでしょ。即売会のたびに挑発的な本が出てね。」「あの頃が一番面白かったね。ただ、残念だったのは、あれらが芽で終わってしまったこと。ちゃんとした形になる前に終わってしまったことだ。あれらがうまく育っていたら、今の同人誌はもうちょっと違うものになっていただろうと思うよ。連中が年齢的に横並び一線で、大学卒業と同時に分散してしまったのが不幸だった。あの頃はつっぱってたよ。俺たちの漫画が一番だって。」亜庭じゅん「敏感な読者を集め 挑発的な即売会を」(インタビュー・聞き手/山川直人)『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)684P
  80. ^ 同人誌即売会で一般にカタログと呼ぶものはMGMではMGM新聞と呼ばれ、活発に各種記事が掲載されたが、90年代に入ってから徐々にサークルカット中心のカタログになっていった。「実はカタログの記事に力をいれるというのは、MGMが始めたことなんです。昔から参加されている方はお分かりかと思いますが、当初からMGMはPRカットと記事の双方に重点をおいて作ってきたつもりです。それが今のようになったのは、単に回数が多くなってきたんでやってられなくなったということと、企画のアイデアが出なくなったとそれだけのことなのです。ただ、MGMの場合、カタログは読者にサークル情報をできるだけ提供するものだと考えています。もちろんスタッフ側からの主張も言いたい時には言いますが、基本的にカタログはサークルと読者の間の交換器のような役割を果たすものと位置づけています。ですから、カットのテーマにしてもなるべくサークルの傾向や力量がわかるもの、サークルと読者の対話のきっかけになるようなものを選んでいるつもりです。」亜庭じゅん「MGM62『60メモリー』より」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)816P
  81. ^ 堀田清成(ほったゆみの夫)と、名古屋大学で漫画研究会を立ち上げた森博嗣らが中心のサークル。1978年から1982年まで名古屋で10回の『コミカ』を主催した。1980年にサークルは解散し『世紀末出版』、『同人とぐる』、ささきすばるが主催する『JET PROPOST』に分かれたが、解散以後もコミカの主催は堀田清成を中心として『グループ・ドガ』名義で続けられた。
  82. ^ 『せえる』は1980年から1986年まで四国・松山で10回開催された。『せえる』には主催者は存在せずスタッフのみが機能的に存在するという形をとり、即売会を参加サークルを含めた全参加者が主体的に作るものとした。「'79年に始まった漫研『まんがせい』は『まんがせえる1』を主催した後、スタッフはそのまま据置き、同人の交流、向上の目的を包括するものとしてサークルから即売会へと発展解消した。」「せえる1から 少なくともせえる10の10日前まで」『まんがせえる ファイナルレポート』(1986年8月17日)62P
  83. ^ 「――本を売る、買う…という行為自体が同人会と読者、同人会と同人会のコミュニケーションであると思います。その日、1日ちょっとお話ができるというだけのコミュニケーションは第二の事に思えます。本を買い、手紙を出す、その返事を出す、こういった努力を読者も同人会もしなければ、本当のコミュニケーションにはならないと考えます。即売会当日のあいさつを僕は信じることができません。また…即売会がどんな場を作ろうとしても、同人誌や漫画のレベルは高くならないと思います。同人誌のレベルを高めるのは同人誌であり、漫画を高めるのは漫画です――こういうむなしさが即売会にはあるのです。/MGMがコミケットからおまつりさわぎをケズリ取ったのは正解ですが、そのため本が売れなくなったとしたら、即売会として、いえ、コミュニケーションの場として失敗だと思います。/入場者をへらし、静かにして、しかも本は同じだけ売れる……これは不可能なことではないはずです。/とにかく、MGMスタッフを遠くから応援したいと思います。」森博嗣・JET PROPOST「MGMへの投書」『MGM新聞4号』(MGM 1981年9月20日)2P
  84. ^ 「時は昭和51年夏――それは勿論、松山にはな〜んにも無かった頃で、しかも、今や30回目にして3400ものサークルを内包する東京のコミックマーケットが、まだ2回目、わずか50数サークルの時代であった。――東京へおのぼりさんをした我々は漫画大会なるものの片隅で『同人誌即売会』なるものと遭遇する!!」「2年後自分達も『まんがせい』という漫研をつくりつつ他の同人誌を求めてやまず、東京の片隅の古本屋さんに同人誌が置いてあると聞き、夜中に電車を乗り継いで駆け込んだのもこの頃である。」「とにかく同人誌に、仲間に飢えていた。大阪コミール、コミックフェア等、若さにまかせて、金をつぎ込み各地の即売会に東奔西走しながら、松山にもいるはずの漫画同人と一緒に、自分達が見てきたような交流の場をこの地元に作りたいと強く思うようになる。そして、それは自分達もサークルであり、描き手である以上、上から与えられるものではなく、共につくる即売会でなければならないとも思った。『参加サークル』という名の“客”には、自分達も他のサークルもしたくなかったし、何よりも自分がサークルとして参加したいと思えるような即売会でなきゃ嫌だった。」「総括」『まんがせえる ファイナルレポート』(1986年8月17日)60P
  85. ^ 「せえるにとって仲間が、共に進んでいく仲間が必要であるなら、そのための共通基盤は、一回ごとのせえるだけではなく、せえるのプロセスこそ重要な拠り所であるでしょう。なんのことはない、ぼくがせえるに魅かれる半分は、このプロセス=ドラマへの期待である訳です。」「せえるが生成し、息づき、一回ごとに前へ進んでいくベクトルを持っていることを明確に打ち出すこと、一回一回のせえるが何をつかみ、何を失い(時にはです)、どこにいるか検証し、実感させること、――ちょっと宗教めきますが、せえるの流れのなかに、参加者をまきこんでいくこと、それが、何よりもせえるに求めたいのです。/抽象的にしか言えないことは、こちらの力不足です。要は、あなた方も相対的な高みにとどまっているものではないと、あなた自身、せえると共に歩んでいるんだというそのことを、示すことではないかと思います。」亜庭じゅん「書簡 亜庭じゅんからまんがせえるへ」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)648P
  86. ^ 「手前ミソでいうのではない。少なくとも、相当年のいった人間にとって、MGM程安心できる場所はないのではないだろうか。何よりそこに集まる本のレベルが、MGM程の水準に達している所は少ない。考えれば、当然の話である。東京という、ともかくやたら同人誌がウジャウジャいる地方の中で、それなりに意欲的なサークルが集まっているのだから、レベルは高くならない方がおかしい。確かにコミケットには質の高い本も出る。だが、数の比率から言えば、おそらくMGMの方が高い。まして、そこに名古屋からセレクトされた部分が加わってくるのだ。マジに買っていけば、出ている本の半分は買うしかないかもしれない。」亜庭じゅん「SHASETSU 1983→1984、MGMにいまいち元気がない――⁉」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)625P
  87. ^ 「最初は創作同人誌即売会というコンセプトが奇異に感じられたのか「人の来ない即売会」と言われたが、徐々に参加サークルも増え、良質の同人誌が高い密度で集まる場を誇るまでになり、MGMにしか参加しないというサークルも現われてきた。名古屋のコミカの主催サークルだったJET・PROPOSTは参加サークルカットに『ぼくらの本はMGMでしか売らない』と書いていた。」高宮成河「あの頃……雑感」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)26P
  88. ^ 「遊び場ばかりを求めてくる人間の不満は、あっさり拒否しよう。しかし、まんがそのものが変わってしまいつつある状況の中で、MGMは、有効な対立軸を見出しているとはいい難い。そして、これらの変化に対して、選択を求められる時期はそう遠くない日にやってくるだろう。/コミカの終了は、これらの変化への拒否も含めた、コミカの選択であったと思う。年寄りめいた言い方だが、即売会一つやるにも、生きてくことのしがらみは、それなりにふりかかってくる。コミカの結論は、中年期へとさしかかろうとする人間には、けっこう魅力的であったりもする。」「創作グループの手で始まり、その同じグループがリードする中から、独特の同人誌状況を作り出し、即売会――コミケットが始まった時、こうあろうとしたコースを、その通りに走って行った。そして、コミカの中から育ったサークルが、それぞれに独り立ちの活動を開始し、各々のカラーを主張し出した、まさにその時に、コミカは終了した。あたかもコミカの役割そのものが終わったとでもいうように、半面の真実でもある、ドガ=コミカの役割は終わったとも言える。」亜庭じゅん「SHASETSU コミカの終了は同人誌即売会への衰退の予兆となるのだろうか?」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)611P
  89. ^ 「実は、せえるを10回で終える事は、考えた末の結果だが、いつか無くなるのなら、一番“らしい”時に終えようという打算も少しあった。今ピリオドを打つのと、多分、非難も反応も、たとえば5年後に終えるのと同じだろうし、また残せるものも同じであろう。1回目から10回目まで、せえるのつくりたいものが同じであったように、以後、回数を重ねても変わり得ないだろう事は、せえるのみんなならよく知ってくれていると思う。/終えると伝えた時の、電話や手紙でのたくさんの手厳しい批判や、寄稿いただいた亜庭氏に代表されるような意見が、スタッフには嬉しかった。ファーストフィナーレを一番怒ってくれた人達こそが、実は、せえるが無くなっても無くす事のないものを心の中にしっかり抱いているのに違いない。/せえるがつくりたかったのは、“形”ではなく、“魂”だった。残したかったのも、それだけだ。せえるという動きが行きつく先など誰も考えなくていい。目的は、行きつく事でなく、動かすものだったのだから。」「“好きな即売会”は、求めるものではなく、自分でつくるものだと気付いて、我々が6年前せえるをつくったように、みんなも、そう知ったからだと思う。それは何も、スタッフになって即売会を新しくつくる事ではなく、今あるものへの働きかけ一つで動いていくものだと。」「ファーストフィナーレが最初の、せえるとしての形に別れを告げる幕だとしたら、次の幕開きは、なんらかの形で必ずある。それこそが幕を降ろし、今度はみんなの中のせえるを育てていく為の理由なのだから。」まんがせえるスタッフ一同「総括」『まんがせえる ファイナルレポート』(1986年8月17日)69P
  90. ^ 「キャプ翼、星矢、トルーパーの三大勢力を中心に女性やおいサークルは、人気作家を生み出し、その魔力を背景に豪華な本作りと大部数発行というバブルに向けて本格的に走りだしていく。」「各地で開かれる即売会はどこも盛況で、中堅、大手イベントも精力的に回を重ねていく。バブルという時代を背景に、自粛ムード、宮崎事件、手塚治虫の死などの負の波を一切寄せつけなかった同人誌業界は、さらなるバブルに向けて走り始めていた。」米澤嘉博『マンガ同人誌エトセトラ'82-'98』(久保書店 2004年9月25日)139P
  91. ^ MGMが拠点としていた川崎市中小企業婦人会館はサークル数100から150程度で最適な会場構成となる広さだった。参加希望が300になろうとする状況をこの会場で捌くことの無理は明らかだったが、規模の拡大はMGMの変質を招くとしてあくまでこの会場に踏みとどまった。「実は(自分は) MGMという即売会やってまして、そこで感じたのは200(サークル) を超えるとちょっともうサークルは、一つ一つは目に入らなくなる。単純に200って、20が10 倍になっただけじゃないんですね。倍々ゲームで負担が増えていくんで、それが(現在のコミケは) 5万(サークル) なんてなんだろうと思うんですけれども。そういう意味ではアンチームな関係をサークルなり参加者なりで作ろうとすると、ある程度の規模の拡大はあきらめざるをえない。規模を大きくするんだったら、ある程度機械的にやる部分がどうしても出てくる。」亜庭じゅん「コミケ誕生打ち明け話」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)739P
  92. ^ 「プロ/アマの二分法をとり払い、プロダムなんか知らないよ! を合言葉に、まんがのオリジナルな流れを作りだそうとしたのがコミケットでした。」「しかし、同人誌から自主出版へと位置づけられる即売会の目論見は、見事に外れました。今や、同人誌という言葉はイメージの内実をこっそり代えて大手をふって飛びまわり、商業誌の一部は、そのうわずみをすくいとって新たなセグメントを考え出してくるといった有様です。そして、その商業誌によって増幅された同人誌・同人誌まんがのイメージが、新しい描き手の腕と頭を縛っていく……。忘れられたのは、裸のまんが表現であり、覆っているのは、同一化の波なのです。/まんがはまんがをマネして作られると言ったのはやまだ紫でした。今、同人誌は同人誌をマネして作られると言いましょう。そして、同人誌とは、『好きなものを好きなように』描くための、錦の御旗であり、唯一絶対の盾、口実なのです。平たく言えば、『自分が楽しんでいるんだから、いーじゃない』!です。即売会を始めとして、同人誌をとりまく環境は、この一言をひたすら保障すべく仕組まれています。あなたは同人誌を楽しくやっている。私は、あなたを楽しませてお金をもらって、また楽しい。だから――いーじゃない!!/まったく!/撃ってみたいのは、この前代未聞の自己肯定。安住しきっている自己満足です。特に80年代に入ってからの風潮とはいえ、これはちょっとあんまりだ。そんなもんじゃないでしょう? 描くってことは」亜庭じゅん「みんなでうまくなろうやんけ!! 1」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)696P
  93. ^ 「コミティアにとって、MGMは大切な先達でありました。何故ならコミティアはまさにMGMの模倣から始まったからです。それは単に『創作オンリー即売会』の嚆矢としてだけでなく、マンガを変革しようという意志を持つ運動としてのです。/MGMが最も輝いていたのは、80年代前半の川崎市民プラザという会場で行われていた時代。当時でも200サークル前後だったと思いますが、そこに全国各地から集うキラ星のような才能ある描き手たち。彼らは互いに刺激しあい、より面白い作品を描こうと腕を磨き、毎回新作を持ち寄りました。20代前半の私は夢中でその本を買い、貪る様に読みました。私にとって理想と思える即売会の姿がそこにあったのです。そこから広がった交流からコミティアが産まれ、いつの間にか27年が経ち、私たちはいま此処にいます。まさにコミティアは、『迷宮』〜コミックマーケット〜MGMという、源流から生まれた遺伝子を受け継いでいます。」COMITIA95 ごあいさつ「MGMがなかったら、コミティアも生まれなかった、という証明」(中村公彦)
  94. ^ ばるぼら (2020年9月4日). “コミティア―マンガの未来のために今できること 第2回/コミティアの歴史―存続が危ぶまれる今、問い直される「コミティアとは何か」”. 2023年9月12日閲覧。
  95. ^ MGM37のMGM新聞に掲載された、1987年11月8日開催のコミティア8の告知広告は「くらべてください COMITIAとMGM」と煽り、続いて、MGM39のMGM新聞に掲載された、1988年3月13日開催のコミティア9の告知広告は「日本最大」を前面に出し「今、日本で一番大きい創作同人誌即売会 COMITIA9 366サークル」と謳っている。『MGM新聞37号』(MGM 1987年10月11日)45P/『MGM新聞39号』(MGM 1988年2月21日)35P
  96. ^ 「商業作品のファンによって構成されるファンクラブや二次創作サークル、コスプレイヤーと同様に、それの展開する作品ジャンルの穴を埋めることで、創作同人は出版社を補完するアマチュア作家として機能することになったとさえいってもいい。なんのことはない、出版社を頂点とする『まんが業界』からの決別を目指したはずの創作同人たちは、みずからしっかりとその業界のなかに取りこまれていたわけだ。『コミックマーケット』にしても『企業ブース』を設けることで逆に『業界』をそのなかに取りこんだように見えるものの、参加サークルの大半が二次創作サークルやファンクラブで占められているということは実質、業界の一部になってしまっているということにほかならないし、『創作』ならぬ『自主制作』のための即売会を謳う『コミティア』も、出張編集部を取り入れるなどして業界との融和のなかに存続の道を探っている。」原田てるお「まんが同人活動と『日常』」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)33P
  97. ^ 「20代の頃、特に前半はよく創作漫画即売会のMGMに顔を出していた。私の漫画自体は未熟で手にとってもらうことも少なかったけれど、MGMという場は大好きでした。小さな会場でそこに出展している作家さんの漫画を全部見てまわるとか、そんなことも出来た。/実験的な開催もいろいろあった。MGMレディースをお手伝いしたこともあったっけ。当時、コミケもコミティアも少しだけ参加したことがあるけれど、MGMへの参加回数には及ばない。ヌルいと言われてもやっぱり心地よかった。」「私はコミケを否定する気は全然ないですけれど、MGMは私にとっては故郷のような懐かしさがあります。」なせもえみ「MGM100〜亜庭さんに寄せて〜」『MGM100記念号 亜庭さんありがとう』(木の実荘企画 2013年1月27日)
  98. ^ 「それでもMGMの開催を重ねることで亜庭じゅんは同人誌即売会を『日常』に取りこんでみせ、最後まで添い遂げた。日常をまんがに捧げるのではなく、みずからをまんがと同等の存在として、日常のなかで両立させたのである。確かに日常をまんがに捧げてプロ作家になってしまえば同人作家に追随は出来ないかもしれないが、同人なりに『量』や気迫をフォローしつつ新たな作品世界を開拓する方法があるのではないか。創作の困難さよりも好きな作品に追随する二次創作の道を選んだ多くの同人たちを尻目に、彼はその方法を模索しつつ、まんがと対等に向き合う同人であり続けたといえるだろう。」原田てるお「まんが同人活動と「日常」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)34P
  99. ^ 「コミケットは常に様々な問題と直面しました。有害コミック規制、児童ポルノ法、税金問題、著作権問題、さらには実際に発火物を使用した事件まで。それは急激な規模拡大によって否応無く、個人の趣味の集会レベルから、社会現象として扱われるようになった宿命でした。『問題はいつもコミケットから起こる』とご本人がよく自嘲気味に呟いていたのが思い出されます。それでも『自由な表現の場』という最後の一線を守って、ある時は積極的に、ある時は上手くバランスをとって対処することで、コミケットは同人誌全体にとっての巨大な防波堤で有り続けました。その部分にこそ米沢さんの代表としての強い意志があったし、その功績はどれほど評価してもし過ぎることはないでしょう。」「米沢さんはかつてコミケットの出発点を『マンガの未来を目指そうとする“運動”であった』と書きました。まさに氏は、コミケット準備会という巨大な組織のなかで『運動体であること』を体現し続けた人でした。」COMITIA78 ごあいさつ「コミケットが『運動体』であるということ」(中村公彦)
  100. ^ 「MGMは1980年8月、〝まんが・ミニ・マーケット〟の名前で誕生した。開会の直接のきっかけとなったのは、コミケットが肥大化し、コミュニケーションどころか、本の売買すらこころもとなくなるという悲惨な状態におちいり始めたからだ。コミケットの言い出しっぺである迷宮の一つのいわゆるケジメであり、機能マヒしたコミケットへのアンチテーゼとして、MGMは始まった。」亜庭じゅん「SHASETSU 1983→1984、MGMにいまいち元気がない――⁉」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)624P
  101. ^ 「あにじゅんの死後、『ぼくは他の何を信じられなくなってもMGMだけは信じられる』と米やんは言ってたよ、とベルから聞いた。ぼくは米やんの孤独をうっすらと感じた。そして米やんはMGMの何を信じようとしていたのかと考えた。コミケットの喧噪のなかに居ながら、米やんが信じたかったのは、迷宮の、そして即売会の始まりのあの時期、あにじゅんや原田央男たちと幾晩も徹夜で話した時間と、自分がコミケットの維持のために失ってしまったもの、あにじゅんがMGMで死守し続けた『子供の理想論』だったのかもしれない。」高宮成河「あの頃……雑感」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)28P
  102. ^ 「迷宮は、80年代半ば頃からMGMを告知する場所になっています。『漫画新批評大系』が81年以降出ていなくて、在庫を並べていましたが、だんだん無くなり、『MGM新聞』を置いていました。今回もMGMのお知らせが主です」「80年代前半、亜庭さんは漫画同人誌『ブレーンバスター』を出し、一時すごい勢いで漫画原稿を描いていました。『新批評大系』は、亜庭家から在庫が見つかると持ってきて売っていました。数年前にも唐突に出てきて20数年ぶりに置きました。亜庭さんは、ビッグサイトには一度も来ませんでしたね。」堀内満里子のツイート 2023年1月3日
  103. ^ 「亜庭じゅんさん。10月の米トのイベントでお会いした時、館用の色紙にサインをお願いしたら『まるでパンダだな〜』っておっしゃるので、『ちがいます!ロックファンにとってのミック・ジャガーが来日したようなものです!』と言うと、はははって笑って、高宮さんといっしょにサインしてくださった。」「ヤマダトモコ[神奈川-神保町近辺]Twitter」閲覧日2014年4月30日
  104. ^ 「亜庭じゅんは年来の病が漸く重篤に至り、入退院を繰り返す中、悪化する体調を押しての出席だった。前日から近隣に夫人と宿をとり、万全を期した。この日は思いの外体調が良く、二次会にも最後まで付き合う元気さを見せたが、三ヶ月後の1月21日永眠。これが多くの友人達への告別の機会となった。」「コミケ誕生打ち明け話 編注」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)735P
  105. ^ 「森川嘉一郎Twitter」閲覧日2014年4月8日
  106. ^ 「コミケ誕生打ち明け話ダイジェストレポート1」閲覧日2014年4月13日
  107. ^ 「コミケ誕生打ち明け話ダイジェストレポート2」閲覧日2014年4月13日
  108. ^ 「コミケ誕生打ち明け話ダイジェストレポート3」閲覧日2014年4月13日
  109. ^ 1980年夏に最初のMGM(まんが・ミニ・マーケット)が開かれた場所であると同時に、1976年4月4日に開催の、第2回コミケットの会場にもなった場所である。第1回が行なわれた日本消防会館が往時の姿を留めない現在、現存する「同人誌即売会」の原点を示す場所をMGM再開に選んだことになった。
  110. ^ 昼間たかし「歴史・人物・雰囲気......同人誌即売会の原点が一挙に集結!『MGM』が5年ぶりに開催」『日刊サイゾー 2012年2月1日』閲覧日2014年4月8日
  111. ^ 「『漫画新批評大系vol.16』として刊行された故・亜庭じゅんの遺稿集。亜庭はコミックマーケットの母体となった漫画批評集団『迷宮』の主要メンバーで、同サークルが発行していた同人誌『漫画批評大系』の主筆を務め、創作漫画専門の同人誌即売会『MGM』の創設者でもあった(『アイデア』348号参照)。亜庭はアマチュアであることを全うしたふしがあり、商業媒体にはほとんど執筆せず、表舞台には名を残していない。しかし本書に収録された主として1970年代に書かれた批評、当時のアマチュアへ大きな影響力を与えたと言われるそれらの、30年以上を経てなお通用する強度は素晴らしい。自己批判も含め変革へ向けた運動体としてのファンダム論は歴史的史料として扱うことになるだろうが、戦後まんが史を『サザエさん』対『鉄腕アトム』の総力戦と捉える視点の新鮮さなどは今でも十分刺激的である。村上知彦自身による『ぼくら語り』と亜庭についての原稿を含め、この本の刊行によって漫画批評史を修正する必要が出てくることは間違いない。」ばるぼら「書評」『アイデア351号』(誠文堂新光社 2012年2月10日)186P
  112. ^ 「『迷宮』の目指していたことは、マンガについての『改革運動』でした。24年組にせよ、三流エロ劇画にせよ、新しいマンガの発生する『現場』をつねにフォローアップする挑戦だったと理解しています。ですから、あにじゅんの遺作集を、故人の追悼刊行だけに留めずにおこうという意図を『迷宮』同人達からのメッセージとして感じます。」赤田祐一「『ぐら・こん』は、ちょっといい夢だった(中編)」『スペクテイター第25号(COMの時代 第四部)』(エディトリアル・デパートメント 2012年6月5日)148P
  113. ^ 「当時の同人誌即売会の状況を記した文献はほとんどない。今回、MGM100のパンフレットでは、81年春、コミックマーケット17の際の亜庭氏の発言、高宮成河氏(コミックマーケット創成のメンバーであると共に『漫金超』編集長としても知られる)が寄せた文章『あの頃……雑感』を掲載し、コミックマーケットの拡大とMGMの立ち上げは、切り離せないものだったことを、(おそらくは初めて)記している。」昼間たかし「コミケがなくなっても、戻れる場はあった──100回を迎えた同人誌即売会・MGMの意義」『日刊サイゾー 2013年2月3日』閲覧日2014年4月8日
  114. ^ MGM100には旧作ではあったが亜庭じゅんとの共作まんがを小冊子にしたものを抱えて、まんがせえるの主要スタッフだった間宮レイもサークルとして参加した。サークル名は「亜庭じゅん未公認F.C」を使った。同人誌即売会への30年近い空白を越えてのサークル参加は、MGMの最後に花を添えるとともに、まんがせえるの終了時に亜庭じゅんから贈られた花束への返礼ともなった。
  115. ^ 2.XXのXXが回次をあらわし、2.02、2.03、2.04…となる。
  116. ^ 私事ですが - ネットゲリラ(2009年10月13日配信) - ウェイバックマシン(2011年11月20日アーカイブ分)
  117. ^ 式城京太郎「『迷宮』と初期コミケット」『20世紀エディトリアル・オデッセイ』(誠文堂新光社 2014年4月30日)161P
  118. ^ 堀内満里子のツイート 2018年12月26日
  119. ^ 堀内満里子のツイート 2018年12月27日
  120. ^ 霜月たかなか『コミックマーケット創世記』(朝日新聞出版 2008年12月30日)184P
  121. ^ 「迷宮による『マニア運動体論』といっても、その実質は亜庭じゅんの執筆によるものであり、僕も米やんもいわば結果としてそれを追認したにすぎない。それほど言葉を駆使する亜庭じゅんの力は圧倒的であったが、筆鋒鋭く既存のまんがサークルを切り捨て、さらには米澤コミケにも斬りつけた言葉は、みずからMGMを開催した実践の段階においては、彼自身を切り裂く諸刃の刃となる。それでも彼は言葉に留まる『理論』よりも、現実に傷つく『実践』のほうを選んだと僕は考える。/そしてそれこそが『マニア運動体論』を反故にしないために彼が取ることが出来た、唯一の方法であったはずだ。さらにそのように『マニア運動体論』を貫徹しようとした限りにおいて、コミケ代表の立場を投げ捨てた僕でも、存続を目的としてコミケに主体的に関わることを放棄した米やんでも、東京という活動の場を共有できなかった高宮でもなく、ただ亜庭じゅんだけが最後まで『迷宮』であり続けたということができるだろう。」原田央男「MGMに参加したこともないくせに…あるいは亜庭じゅんについて」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)749P
  122. ^ 明石良信のツイート 2017年8月31日
  123. ^ a b 「『迷宮』のWikiは、高宮成河さんが書いたので、高宮さんの交友関係から外れている方の記述はないかも。おとといベルちゃんから電話があって、やはり橋本氏は行方不明とのこと」堀内満里子のツイート 2023年1月15日
  124. ^ 「原田さんが抜けたことで、残った2人も居心地が悪くなって、あにじゅんも離れたんじゃないかと思います。三角形の強さみたいなのがあっただろうし。MGMを始めた頃は私ももう『迷宮』にはいなかったんじゃなかったかなと思います。」式城京太郎「『迷宮』と初期コミケット」『20世紀エディトリアル・オデッセイ』(誠文堂新光社 2014年4月30日)160-161P
  125. ^ 「『じゃ、同人誌だけを売買する場所を作ればいいじゃない。費用は参加するサークルに頭割りすれば、こっちはそんなにかからないし、やることだって、連絡と宣伝だけだから、手間はかからない。名前はコミックマーケット、略称コミケット!』/明石さんの一言から、ここまで、おそらく15分はかかっていない。天啓のように、一瞬にしてコミケットは誕生した。いや、ふりかえって見れば、その瞬間は、20年の時を超えて、現在に至る全てを胚胎していたと言ってもいい。何の迷いも逡巡もなく決まった、“コミックマーケット”という名称。このマーケットというネーミングがすべてを決めた。」「他のメンバーがどうであったかは知らない。しかし、少なくともコミケットを運営する主体を、コミケット運営委員会でも、実行委員会でもなく、『コミケット準備会』とした時、その底に、コミケットなるものは、いつまでも手の届かない逃げ水になるという、予感は共有していたろう。」亜庭じゅん「明石さんへ──」『コミックマーケット20周年記念資料集』(コミックマーケット準備会 1996年3月17日)420P
  126. ^ 「コミケット開催の最大のきっかけは僕らの仲間であったT.I.嬢が漫大を批判したことによる参加拒否問題であり、その後『漫画大会を告発する会』を作り、色々な経緯を経て開催に至るのだが、それが決まった時期は良くわからない。式城氏によれば迷宮結成時には既にコミケットの開催は決まっていたというし、後述の亜庭氏の文では決まったのは初夏になっている(告発する会の結成が7月だからそのときかもしれない)。僕は秋ごろに開催を聞いて驚喜したという記憶があるから、あの『伝説』すなわちコミケット手帳の『僕の一言でコミケは始まった』は真実ではないと『歩き方』にも書いたのだが、その後『20s』で亜庭氏が『伝説』を補強するようなことを書いたものだから一部には真実と捉えられているようだ。何度か米やんにこのことの経緯を聞いたのだがニャニャしながら『人にはそれぞれの思い出があるからねえ』と自分の思い出は喋ってくれなかった」明石良信のツイート 2019年10月17日
  127. ^ 竹本健治 [@takemootoo] (2015年3月18日). "僕も出品した第1回のコミケの公式ポスター。何とガリ版。描いたのは、当時よくつるんで遊んでいた鈴木哲也君。彼はガリ版の魔術師と呼ばれ、浮世絵みたいな多色刷りのガリ版同人誌を作ったりしていた。ここでも6色+グラデーションを使っている。". X(旧Twitter)より2023年1月15日閲覧
  128. ^ 有限会社コミケット『コミックマーケット30'sファイル』2005年7月、223P
  129. ^ Calci [@Calcijp] (2018年4月25日). "何度か呟いてますが、僕がコミケに初参加したのは1977年の4月の第5回から。僕が編集をした同人誌を売りにいったのが最初です。ジャンルは評論。その同人誌の執筆メンバーはマンガファンのグループ「全日本まんがファン連合」で知り合った人たちです。". X(旧Twitter)より2024年1月8日閲覧
  130. ^ Calci [@Calcijp] (2018年4月25日). "なんか「女のオタクなど存在しない、歴史の捏造は許さない」とか言うツイートを見かけたので1977年頃のコミケの写真貼っとくわ。". X(旧Twitter)より2023年1月15日閲覧
  131. ^ Calci [@Calcijp] (2021年1月12日). "以前にも出したかもですが、1977.7.30, コミケット6の際の木馬館合宿の様子。左から、高宮成河、亜庭じゅん、米澤嘉博、坂野(米澤)英子(結婚前)。良く残ったと思います。". X(旧Twitter)より2023年1月15日閲覧
  132. ^ 藤下真湖「コミケの迷路『コミケット・スキャンダル』」漫画の手帖事務局『漫画の手帖』84号
  133. ^ 「MGMじゃ売るに売れないから、身内に直接売りつけたのかも。だから80年代なのに青焼きで少部数。これ持ってる人間に聞くと、みんなどこで買ったか記憶にない(笑)」くだん書房のツイート 2022年10月18日



「迷宮 (同人サークル)」の例文・使い方・用例・文例

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