軍艦の大型化と4号ドックの建設
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「横須賀海軍施設ドック」の記事における「軍艦の大型化と4号ドックの建設」の解説
2号ドックが完成した明治17年(1884年)12月には横須賀鎮守府が設立された。明治19年(1886年)4月には横須賀鎮守府に造船部が設置され、これまで民間の造船業が未発達であったこともあって、民間や外国籍の船舶も修理を請け負っていたものが、海軍艦船の造船、艤装そして修理をその目的とされるようになった。明治22年(1889年)5月には横須賀造船所は廃止され、横須賀鎮守府造船部に統合された。そして横須賀鎮守府造船部は明治30年(1897年)に横須賀海軍造船廠となり、明治36年(1903年)11月には横須賀海軍工廠となった。 日本海軍では海軍力の増強に伴い、軍艦の大型化が進んでいた。そのような中、横須賀海軍工廠第四船渠として4号ドックの建設が開始されることになった。新ドック建設予定地には旗山と呼ばれていた丘があったが、明治31年(1898年)10月から旗山を崩してその土砂で海の埋め立てを行い、ドック建設予定地の整地を行った。明治34年(1901年)3月には予定地の整地が完了し、同年11月、4号ドックは起工された。工事の施工管理は主任技師の井上親雄が行った。4号ドックは日露戦争終了後の明治38年(1905年)9月に完成し、横須賀海軍工廠では軍艦の大型化に対応した最初のドックとなった。 4号ドックは建設当初、ドック主体部についてはコンクリート造、ドック入り口部は石組みによる石造となっており、コンクリートと石造の併用であった。またこれまで建造されたドックと同じく、ドック奥には物資運搬用の斜路が設けられたが、昭和3年(1928年)から昭和4年(1929年)にかけてに行われたドック長を40.6メートル延長する改修の際、1号ドックと同じく斜路は撤去された。4号ドックは昭和18年(1943年)から昭和19年(1944年)に再延長工事が行われ、また平成17年(2005年)には、ドック入渠の際に船体とドック壁を保護することを目的とし、ドック入り口部分に防舷材の設置工事が行われ、防舷材が設置される部分の石組みが撤去された。なお当工事中に工事箇所の4号ドックの石組みとコンクリートについて調査が実施され、石組みは1号から3号ドックで推定されるのと同じく、西洋式の直方体の石材を隙間無く組む方式と、日本式の「間知積み」と呼ばれる城の石垣を組む際に行われた方式の折衷であったと考えられることと、石組みの裏込みはコンクリートによって行われていたことが明らかとなった。 4号ドックには艦船修理の材料や部品を搬入するためのクレーンが設置され、戦後の米海軍艦船修理廠でも使用され続けてきたが、設備の老朽化が進んだために徐々に撤去が行われた。4号ドックのクレーンは平成13年(2001年)に撤去され、新たなクレーンに交換された。なお5号、6号ドックにも戦前から使用され続けていたクレーンが存在したが、平成15年(2003年)までには全て撤去され、現在は新しいクレーンが使用されている。
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