身分と構成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 05:15 UTC 版)
ポーランド王国と国家連合を組んでいたリトアニア大公国の貴族の社会では、良きリトアニア人(リトアニア貴族)であることは良きポーランド人(シュラフタ)であることとまったく矛盾しなかった。(また、これについては平民階級でも同じことが言えた)。世界中の他のどの国にも見られないこのシュラフタという特殊な身分は、言語や一族の出身地や宗教や財産による違いを超越した一つの巨大で平等なコスモポリタン共同体の構成資格のことであり、それは現代の「国民」に取って代わるアイデンティティであった。そして、シュラフタの制度が存在した当時の考えでは、シュラフタであることはポーランド・リトアニア共和国の国民であることと同じ意味だった。その後1791年に成立したポーランド憲法はポーランドの住民すべてにシュラフタと同様の社会的権利を与えること(いわゆる「シュラフタ化」)により国民国家建設をその究極的な目的のひとつとした。これはポーランドの改革から1世紀ほど遅れて日本で行われた明治維新が、究極的には国民全体に士族と同様の社会的権利を付与することによる近代国家建設をもくろんだことと共通する。 シュラフタの数は西欧の貴族と比較すると多いため、時に日本の武士との対比で「士族」と訳されることもある。14世紀から続いたポーランド・リトアニア連合が発展して16世紀に成立したポーランド・リトアニア共和国では、ポーランド語を母語とする者の実に25%がシュラフタだったというが、同国はさまざまな言葉が飛び交う多民族多言語国家だったことを勘案すると、国全体におけるシュラフタの比率は10%ほどだったと推定できる。また、西欧貴族の多くが自らの荘園で労働者を雇う大地主だったのに対し、シュラフタの多くは自ら就労して俸禄を得ていた点でも日本の武士の姿と重なるものがある。また大貴族の当主たちの大半もセイム(国会)、セナト(元老院)、大法官(内閣)、省庁、宮廷、軍などで主要なポストを担い、文官あるいは武官として活躍していた。 シュラフタの内部構成は非常に多様で、母語や宗教はさまざまであった。民族的背景にはポーランド人、ルーシ人(現代におけるいわゆるベラルーシ人とウクライナ人)、リトアニア人、タタール人が最も多かったが、ハンガリー人、ラトビア人、モスクワ人(ロシア人)、ドイツ人、オランダ人、チェコ人、スウェーデン人、ユダヤ人などもいた。宗教的背景にはキリスト教徒が圧倒的には多く、イスラム教徒、シャーマニスト[要出典]、無神論者もいた。しかし、シュラフタ身分取得の資格のあるユダヤ教徒はシュラフタとして登録されるためにキリスト教への改宗が条件とされた。16世紀に成立したブレスト合同でカトリック教徒と正教会信者との制度的平等が確保されてはいたが、シュラフタたちは時代が下るにつれて言語も文化もポーランド化し、さらに17世紀後半からは多くがカトリック教徒となっていった。ポーランド化やカトリックへの改宗が「制度として」強制されたわけではなかった。ユダヤ系の人々はシュラフタ身分を取得するのにカトリック教会を選択した。17世紀のコサック叛乱(フメリニツキーの乱)以後は、カトリックへ改宗しなければ不道徳であるとして周囲からひどく白眼視されるといったような社会的圧力が定着していった。ただしポーランド化については、シュラフタ身分の社会的たしなみとして常に望ましいことと認識されていた。
※この「身分と構成」の解説は、「シュラフタ」の解説の一部です。
「身分と構成」を含む「シュラフタ」の記事については、「シュラフタ」の概要を参照ください。
- 身分と構成のページへのリンク