身分と役割の定着
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 16:39 UTC 版)
安土桃山時代が終わり江戸時代に入って幕藩体制が確立すると、身分制度も整備されていき、かわた身分の位置づけも明確となっていく。 例えば慶長16年(1611年)4月、金沢藩が死牛の皮剥ぎをかわたに許可し、寛永15年(1638年)、加賀・能登両国における死牛馬の皮はかわたの差配にすると命じていることが見られるように、幕藩勢力はかわたに死牛馬の処理を行わせる事を法制的に規定した。 それと同時にかわたに行刑・警察的任務を負わせる政策を強化した。長州藩では慶長9年(1604年)、山口垣之内のかわたに「郷中見廻役」を命じ、長崎でも承応2年(1653年)の頃には皮製造人に刑の執行をやらせていた。 「慶長播磨国図」(天理図書館蔵)には「かわた」が48か所も、慶長10年(1605年)より少し後のものと推定される「摂津国図」(西宮市立図書館蔵)にも「皮田」「皮多」「川田村」「河原村」「カワラ村」が7か所記載されており、このように少なくとも近畿地方ではかわたが集落として把握され、特定の地域に集住させられていたのである。
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