趙雲別伝とは? わかりやすく解説

趙雲別伝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 05:00 UTC 版)

趙雲」の記事における「趙雲別伝」の解説

本伝中の記述がやや簡素なのに比べ、以下の『趙雲別伝』は記述多く司馬光も『資治通鑑』を編纂するにあたって趙雲別伝の記述採用している。 清の史学者は、趙雲劉備仕えた時期本伝異なること、第一次北伐降格され趙雲褒賞受けたのが不自然であることからその内容否定し、「趙雲別伝とは趙家の家伝改編したものではないか」と疑問呈している。 光地も、本伝中の趙雲功績少な一方で別伝中の趙雲功績が多すぎるとして、その違い疑問呈している。 趙雲身長八尺(約184cm)で、姿や顔つき際立って立派だったという。故郷常山郡から推挙され官民義勇兵率いて公孫瓚配下となった。 後に趙雲が兄の喪のために公孫瓚の下を辞して故郷へ帰ることになった時、劉備趙雲が自らの下にもう二度と戻って来ることはないだろう悟った、とある。 建安5年200年)、劉備袁紹頼って来ると、趙雲は鄴で久しぶり目通りし、密かに募った数百人の兵を連れて劉備配下となった博望坡の戦い参加し同郷知人である夏侯蘭捕虜とし、軍正に推挙したという。 建安13年208年)からの荊州平定参加し、偏将軍桂陽太守になったとされるまた、この桂陽攻略時に降伏した太守趙範が、自らの兄嫁未亡人)を嫁がせようとしたが、趙雲は「趙範追い詰められ降った過ぎず内実判った者では有りません。また、天下にも女は少なくありません」と述べて、これを固辞した劉備入蜀時に趙雲を留営司馬任じ奥向きのことを取り締まらせた。孫権劉備自分騙して入蜀したと聞くと、孫夫人を呉に帰らせたが、孫夫人劉禅連れて行こうとした。趙雲張飛と共に長江遮り劉禅奪回した。このエピソードは『漢晋春秋』にも載っている。 益州支配後、劉備益州備蓄してあった財産農地分配しようとした際、趙雲反対したので劉備はそれに従ったという。漢中攻め定軍山の戦い)では黄忠救出し見事な撤退戦空城計演じたため、劉備から「子龍一身これすべて胆なり(子龍一身都是膽也、子龍度胸の塊の意)」と賞賛され、軍中において虎威将軍呼ばれるようになった。このエピソードは『資治通鑑』にも載っている。 章武元年221年)、呉を討とうとする劉備を「敵は魏であり呉ではありません」と朝議諫めた聴き容れられず、対呉戦争夷陵の戦い)では、趙雲江州督として留まった。劉備敗戦すると永安まで兵を進めこれを救援した建興6年228年)、曹真敗北した趙雲が自ら殿軍務め、兵を巧みに取りまとめ軍需物資を殆ど捨てず退却したため、諸葛亮恩賞として趙雲軍将兵分配しようとした。しかし趙雲は、『敗軍将に恩賞あってはなりません。どうかそのまま残しておき、冬の備えされますようお頼みします』と進言した。 順平侯の諡を追贈することを上奏した姜維は、「柔順賢明慈愛恩恵有する者を順と称し仕事をするのに秩序があるのを平と称し災禍動乱平定するのを平と称します。趙雲殿に順平侯の諡号賜るのが至当存じます」とある。

※この「趙雲別伝」の解説は、「趙雲」の解説の一部です。
「趙雲別伝」を含む「趙雲」の記事については、「趙雲」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「趙雲別伝」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


このページでは「ウィキペディア小見出し辞書」から趙雲別伝を検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書から趙雲別伝を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書から趙雲別伝 を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「趙雲別伝」の関連用語

趙雲別伝のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



趙雲別伝のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの趙雲 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS