趙雲別伝
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本伝中の記述がやや簡素なのに比べ、以下の『趙雲別伝』は記述が多く、司馬光も『資治通鑑』を編纂するにあたって趙雲別伝の記述を採用している。 清の史学者は、趙雲が劉備に仕えた時期が本伝と異なること、第一次北伐で降格された趙雲が褒賞を受けたのが不自然であることからその内容を否定し、「趙雲別伝とは趙家の家伝を改編したものではないか」と疑問を呈している。 李光地も、本伝中の趙雲は功績が少ない一方で、別伝中の趙雲は功績が多すぎるとして、その違いに疑問を呈している。 趙雲は身長八尺(約184cm)で、姿や顔つきが際立って立派だったという。故郷の常山郡から推挙され、官民の義勇兵を率いて公孫瓚の配下となった。 後に趙雲が兄の喪のために公孫瓚の下を辞して故郷へ帰ることになった時、劉備は趙雲が自らの下にもう二度と戻って来ることはないだろうと悟った、とある。 建安5年(200年)、劉備が袁紹を頼って来ると、趙雲は鄴で久しぶりに目通りし、密かに募った数百人の兵を連れて劉備の配下となった。 博望坡の戦いに参加し、同郷の知人である夏侯蘭を捕虜とし、軍正に推挙したという。 建安13年(208年)からの荊州平定に参加し、偏将軍・桂陽太守になったとされる。また、この桂陽攻略時に降伏した太守の趙範が、自らの兄嫁(未亡人)を嫁がせようとしたが、趙雲は「趙範は追い詰められて降ったに過ぎず、内実は判った者では有りません。また、天下にも女は少なくありません」と述べて、これを固辞した。 劉備は入蜀時に趙雲を留営司馬に任じ、奥向きのことを取り締まらせた。孫権は劉備が自分を騙して入蜀したと聞くと、孫夫人を呉に帰らせたが、孫夫人は劉禅を連れて行こうとした。趙雲は張飛と共に長江を遮り、劉禅を奪回した。このエピソードは『漢晋春秋』にも載っている。 益州支配後、劉備が益州に備蓄してあった財産や農地を分配しようとした際、趙雲が反対したので劉備はそれに従ったという。漢中攻め(定軍山の戦い)では黄忠を救出し見事な撤退戦と空城計を演じたため、劉備から「子龍は一身これすべて胆なり(子龍一身都是膽也、子龍は度胸の塊の意)」と賞賛され、軍中において虎威将軍と呼ばれるようになった。このエピソードは『資治通鑑』にも載っている。 章武元年(221年)、呉を討とうとする劉備を「敵は魏であり呉ではありません」と朝議で諫めたが聴き容れられず、対呉戦争(夷陵の戦い)では、趙雲は江州督として留まった。劉備が敗戦すると永安まで兵を進めこれを救援した。 建興6年(228年)、曹真に敗北した趙雲が自ら殿軍を務め、兵を巧みに取りまとめて軍需物資を殆ど捨てずに退却したため、諸葛亮は恩賞として趙雲軍の将兵に分配しようとした。しかし趙雲は、『敗軍の将に恩賞があってはなりません。どうかそのまま残しておき、冬の備えとされますようお頼みします』と進言した。 順平侯の諡を追贈することを上奏した姜維は、「柔順・賢明・慈愛・恩恵を有する者を順と称し、仕事をするのに秩序があるのを平と称し、災禍・動乱を平定するのを平と称します。趙雲殿に順平侯の諡号を賜るのが至当と存じます」とある。
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