趙高非宦官説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 06:00 UTC 版)
ウィキソースに『史記』蒙恬列伝の原文があります。 『史記』蒙恬列伝には、「趙高の昆弟数人、皆隠宮に生まる。」という記述がある。この記述について、注釈書の『史記集解』・『史記索隠』は、ともに「隠宮」を宦官のことと解釈している。また、「隠宮」という語は秦始皇本紀にも見え、『史記正義』はそれを宮刑のことと解している。こうした『史記』の注釈書(三家注)から、趙高が宦官であったという理解が広まることとなった。 しかし、滝川亀太郎『史記会注考証』は中井積徳の文を引き、趙高には閻楽という女婿がいることから、生まれてすぐに宦官になったわけではないとしている。そうであれば、秦に官吏として仕える途中で罪を犯したか、もしくは連座により宮刑に処せられたと思われる。また、趙高は貧家に生まれ、多くの兄を養うために自ら宦官を志願して秦に仕えたのだとする説もある。[要出典] その後、新たに出土した竹簡史料を根拠に、そもそも趙高が宦官でなかったとする説が唱えられている。馬非百(中国語版)は蒙恬列伝の「隠宮」は「隠官」の誤写であると指摘している。「隠官」という語は睡虎地秦簡・里耶秦簡・張家山漢簡に見え、刑期が満了した人が働く場所、またはその身分をいう。つまり、趙高は宮刑や去勢を受けたわけではなく、宦官ではなかったということになる。鶴間和幸は、『史記索隠』・『史記正義』が作られた唐代には宦官の政治的弊害が大きかったため、趙高が宦官と理解されたという見解を示している。
※この「趙高非宦官説」の解説は、「趙高」の解説の一部です。
「趙高非宦官説」を含む「趙高」の記事については、「趙高」の概要を参照ください。
- 趙高非宦官説のページへのリンク