趙匡胤にまつわるエピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 16:18 UTC 版)
「趙匡胤」の記事における「趙匡胤にまつわるエピソード」の解説
騎射が得意で、悪馬を馴らそうと勒を付けずに乗馬しようとしたが、城門に頭をぶつけて落馬したことがあった。目撃者達は首が折れて死んでしまったかと思っていると、趙匡胤はすぐさま起き上がり馬を追っていったが、一つも傷がなかったという(『宋史』 本紀第一 太祖一)。 世宗の後唐征伐の最中、父の趙弘殷が夜中に趙匡胤に城の開門を求めたが、「親子の関係といえども城門の開閉は公務である」と言い、城門を開けなかった。そして趙弘殷は朝になってようやく入城することができた。 以下のことなどから、無駄な殺生を嫌っていたことがわかる。かつて自分の君主であった恭帝柴宗訓を禅譲後も鄭王として遇し、柴宗訓が死ぬと喪服を着けて10日間政務をとりやめ、皇帝として葬を執り行った。 亡国の君主である孟昶・李煜・劉鋹らを処刑せずに侯として遇した。 南唐征服の際には曹彬らに「落城の際には決して殺戮を行なうな」と訓令した。 陳橋の変の際、王彦昇が禅譲を妨げようとした副都指揮使の韓通を勝手に殺したことを責め、助命したものの、節鉞(征伐の将軍に与える割符)を決して与えることはなく、さらに韓通に中書令を追贈し、厚く葬った。 王全斌が後蜀を滅ぼした際に降兵2万7千を虐殺し、蜀の財貨を奪うなどを行ったことを咎め、蜀征伐の功にもかかわらず降格処分にした。 呉越の銭俶(趙弘殷を避諱し、銭弘俶から改名)が自ら来朝した時、宰相以下の百官はみな、銭俶を捕らえ、その国土を奪うことを請うたが、趙匡胤は取り合わなかった。銭俶が帰国する際、群臣の銭俶を捕らえるように求めた上表文を持たせ、帰国の途中これを見た銭俶は感動し、後に国土を献じたという。 南漢の最後の君主の劉鋹は、好んで毒酒をもって臣下を毒殺していたことがあった。降伏後、趙匡胤の巡幸に従った時、趙匡胤より酒杯を勧められると、自身を毒殺しようとしてるのではないかと疑い、泣いて「臣(私)の罪は許されるものでありませんが、陛下は私を殺さないでいてくれました。どうか開封の庶民として泰平の世を過ごさせてください。どうかこの酒杯を飲ませないでください」と言った。これに対し、趙匡胤は笑って「自分は人を厚く信頼している。どうして汝だけ信じないことがあろうか」と言い、その酒杯を飲み、新しく酒を酌み劉鋹に飲ませたという。 建国当初、しばしばお忍びで出かけたことをある臣下に諫められたことがあったが、「自分は天命が下ったので天子になったのであり、世宗が部将の中で顔が広く耳が大きい者を次々に殺していたが、自分は(そのような容貌であるのに)世宗の側にずっと侍していたが、殺されることはなかった」と言い、ますますお忍びで出かけることが増えた。さらに諌める者がいると、「自分は天子なのだから、自分の好きなようにさせろ。お前に指図されるいわれはない」といったという(『宋史』本紀第三 太祖三)。 ある日、政務をやめて不快そうに座っていたので、側近がその理由を尋ねると、「天子であることは簡単なことだといえるだろうか? ある事案を早合点して誤って決してしまったから、不快なのである」と答えたという。 節約を旨としており、娘の魏国長公主が肌着にカワセミの羽を装飾に使っているのを見て、戒めて二度とさせなかった上、「お前は富貴な身分として育った。そのことの有難味を思いなさい」と説教したという。また、後蜀の最後の君主であった孟昶が杯に宝飾を凝らしているのを見て、これを取りあげて砕き、「お前は杯を七宝で飾っているが、何の器で飲食する気なのだ。そのようなことをしているから国を亡ぼしたのだ」と叱咤したという。 晩年は読書を好み、『書経』を読んで嘆いて「古の帝王の堯・舜の世の中は四人の悪人を追放するだけであったが、今の世の中は法が網のように密である」と言った。 弟の趙匡義(後の太宗)が病気にかかると自ら薬を煎じて飲ませ、近臣に「弟は龍虎のように堂々としており、生まれた時に異兆があった。後日必ず泰平の世の天子となるだろう。ただ福徳の点では私に及ばない」と語ったという。
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