資料・研究
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「山科勝成」の名は外務省編纂の『外交志稿』で世に知られ、次いで1893年に渡辺修二郎が著した「世界に於ける日本人」で取り上げられたことにより、その知名度を上げた。『外交志稿』は参考史料を『蒲生家記』としており、渡辺は『蒲生家記』ほか数篇の史料を挙げたが、学術的に知られた『蒲生家記』に山科勝成および蒲生氏郷による遣欧使節の話は載っておらず、その情報の出所は不明瞭だった。その後、廃嫡された蒲生氏郷の子・氏俊から子孫に伝えられたとされる写本「蒲生氏郷事跡・御祐筆日記抄略」の存在が明らかとなった。この史料は蒲生家の家人・大野彌五左衛門なる者が、寛永19年(1642年)に著したものであると序文に記されているが、『蒲生家記』と重複する内容が多く、同書を底本として、筆を加えたものとみられる。 「御祐筆日記抄略」を調査した歴史学者・辻善之助は、複数の観点からロルテス=山科勝成の実在性、そして蒲生氏郷によるローマ遣使の史実性を否定している。 ロルテスの身元が甚だ不明瞭で、蒲生氏郷に紹介状を書けるほどの人物が誰であるのかも記されていない。 学術的に知られた『蒲生家記』と照合したとき、山科勝成とローマ派遣についての記述だけが浮いた存在である。 これほど活躍した武将が、まして大砲を操るという極めて珍しい戦法を用いているのに、他の歴史文書に一切記録されていない。 加賀野井城の攻略戦から7日後にはローマへ向けて出立しているのはあまりにも急である。どのような船で、誰の案内で行ったのかも判然としないし、現地の話も全く書かれていない。また、他の大名からの遣欧使節は出発から帰国までに7~9年を要しているのに対し、氏郷からの使節は7年で4往復もしている点も甚だ不可思議である。 文章全体に時代が新しい語が散りばめられており、寛永19年成立の文書であるという点にも疑いを持たざるを得ない。 以上の点から辻は「御祐筆日記抄略」について、『蒲生家記』にロルテス=山科勝成という架空の存在を付け足して、渡辺による入手から近い時代に書かれたものであるとし、勝成の通称「羅久呂左衛門」も、伊達政宗から発せられた慶長遣欧使節の長であった支倉常長の通称「六郎右衛門」のもじりではないかと推測している。また、ローマへの使節については「全くの絵空事」とし、当初その史実性が疑問視されながら、彼地において様々な史料が発見され事実確認に至った慶長遣欧使節とは、派遣元に史料が残されていないという点で事情が大いに異なると指摘している。 「御祐筆日記抄略」を最初に入手した渡辺修二郎は、辻と同様に文章表現が新しいことを認めつつも、「故意に捏造して紛れこませたという痕跡はない」ともし、「氏郷がローマ人を軍人として用いたのはあるいは事実であろう」と述べている。遣欧使節については「当時といえども2年半ないし3年でヨーロッパとの往復は全く不可能ではない」としているが、その一方でやはり現地の様子についての報告が全くないことを訝しみ、自身の調査でもローマに氏郷からの使節派遣を裏付ける史料が全く見つからなかったとしており、遣使があったとしてもフィリピン、マニラ、ゴアなど東南~南アジアへの通商団であって、書物を贈られたという「ローマの大僧正」も、実際はそうした土地における宗教者のことだったのではないかと推測している。 なお、勝成が登場する複数の創作物において、「イタリア人宣教師のオルガンティノが連れてきた元マルタ騎士団員で、本名はジョバンニ・ロルテス」という設定がなされていることがあるが、「御祐筆日記抄略」の上では、辻が史料批判を行っているとおり「知識を極めた軍人である」という以外に、名前も含め具体的な素性は全く書かれていない。
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