負の数の起源とは? わかりやすく解説

負の数の起源

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 10:25 UTC 版)

正の数と負の数」の記事における「負の数の起源」の解説

長い間問題対する負の解は「誤り」であると考えられていた。これは、負数実世界見付けることができなかったためである(例えば、負数リンゴを持つことはできない)。その抽象概念早ければ紀元前100年紀元前50年には認識されていた。中国の『九章算術』には図の面積求め方法含まれている。赤い算木で正の係数を、黒い算木で負の係数示し負の数がかかわる連立方程式を解くことができた。紀元後7世紀ごろに書かれ古代インドの『バクシャーリー写本』は"+"を負符号として使い負の数による計算行っていた。これらが現在知られている最古負の数使用である。 プトレマイオス朝エジプトではディオファントス3世紀に『算術』で 4x + 20 = 0 (解は負となる)と等価方程式言及しこの方程式ばかげていると言っており、古代地中海世界負数概念がなかったことを示している。 7世紀の間に、負数インド負債を表すために使われていた。インドの数学ブラーマグプタは『ブラーフマスプタ・シッダーンタ』(628年)において、今日使われている一般化され形式解の公式作るために、負数を使うことについて論じている。彼は二次方程式の負の解を発見し負数関わる演算に関する規則与えている。彼は正数を「財産」、を「0 (cipher)」、負の数を「借金」と呼んだ12世紀インドで、バースカラ2世二次方程式負の根与えていたが、問題文脈では不適切なものとして負の根拒絶している。 8世紀以降イスラム世界ブラーマグプタ著書アラビア語訳から負の数学び紀元1000年頃までには、アラブ数学者負債負の数を使うことを理解していた。 負の数知識は、最終的にアラビア語インド語著書ラテン語訳通してヨーロッパ到達した。 しかし、ヨーロッパ数学者はそのほとんどが、17世紀まで負数概念抵抗見せた。ただしフィボナッチは、『算盤の書』(1202年)の第13章負数負債解釈し、後には『精華』で損失解釈して金融問題に負の解を認めた同時に中国人右端ゼロでない斜線を引くことによって負数表したヨーロッパ人著書負数使われたのは、15世紀中のシュケよるもの最初であった。彼は負数指数として使ったが、「馬鹿げた数」であると呼んだイギリス数学者フランシス・マセレスは1759年負数存在しないという結論達した負数現代まで十分に理解されていなかった。つい18世紀までスイス数学者レオンハルト・オイラー負数無限大より大きい信じており(この見解ジョン・ウォリスと共通である)、方程式返すあらゆる負の解を意味がないものとして無視することが普通だった負数無限大より大きいという論拠は、 1 x {\displaystyle {\frac {1}{x}}} の商と、x が正の側から x = 0 の点に近づき交差した何が起きるかの考察によって生じている。

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