議論の内容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/17 00:18 UTC 版)
サタンの試練に遭って、苦しみの中でヨブは憂鬱な態度で自分の生まれた日を呪い(混沌に帰したい)、死以外の解決方法を見いだせないでいた。三人の友人はエリファズを筆頭に、慰めを兼ねて因果律を説く。三人の友人の主張は、前述のサタンの主張と関連しており、神は正しい者に祝福を与えて罪を犯した人に災いを与えるという因果応報の原理(因果応報は、倫理観を引き出す強い力になるが、社会的弱者や病人には過酷である。)を盾に、元の境遇に戻るために、ヨブが罪を認めて神の信仰に戻ることを求めるというものであった。しかし、ヨブには思い当たるふしがなく、えん罪を主張する。 仮にヨブが罪を認めて元の境遇に戻してもらうよう祈った場合、利益のための信仰でありサタンが勝利する。 混沌に帰すことは神に対する冒涜とも考えられるが、サタンは勝利宣告をしていない。複数の文書の編集故か不明であるが、少なくとも形式的な倫理が主題ではないのかも知れない。また、友人との議論の段階では、自らの境遇の変化に対して心理的に後退しており、受け入れ方に若干の相違がある。 友人たちは、神はこの世を正しく裁いており、その裁きに疑念を抱く余地はないと執拗に繰り返し、ヨブが罰せられた以上、彼は間違いなく何らかの罪を犯したのであるから、神と和解して正しい教えを抱き祈るのが答えであると諭す。また、神の前では正しい人間など一人もおらず、それぞれがその罪に応じた罰を受けるものであると主張する。ヨブは神だけが把握している認識できない罪まで問われるのは正当でないと反論する。 当初からヨブは無垢な信仰を持っていたが、サタンによる試練や友人との議論をきっかけに、災いと罪との安易な関連づけに疑問を持ちながら、神自身の登場を待つところまで信仰について深く踏み込んでいく。ヨブは議論を経て、塵である自らを(無償で)贖う方の存在を予告し、因果応報と異なる世界観の存在を宣告する。 エリファズの主張は三人の友人の議論を先導しており、ヨブが富んでいたことに対して、神の正義に照らした場合、本来は貧しい者の所有物を奪っていた行為によるものなのではないかと断言する。双方は引けないところまで議論が進み、一方でヨブが、権力を持って生まれ非道に奪い抑圧する者によって、貧しく生まれ貧しく生きる無垢の人々が自分と共にいることを認識するに至り(24章の貧者の詳細が鮮明なのは、貧者の状況に目が行き届いていることを示している)、自分は因果応報の一般論だけではなく、どこかに結論を得なければならないことを知り、三人の友人に比べて言葉を増すようになる。ヨブは自らの正しさを確信し、友人は沈黙する。それに対してエリフが怒る。 【新約聖書と貧困・災難や社会正義の関連】貧困や病苦の存在と因果応報に関する友人との議論は、当時のユダヤ人の宗教的指導者及びユダがイエスの十字架による救いではなく政治的な栄光による救いを求めていたことを連想させる。 イエスは積極的に貧困や悲惨を肯定的に捉えている。 社会正義については、イエスは毒麦は刈り入れまで待つと言及している。 【新約聖書における因果応報と災いの考え方の例】因果応報による例イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。(ルカ5:20) その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。(同5:25) 因果応報によらない例「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(ヨハネ9:2) 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(同9:3)
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