議員初当選
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政治家に転じるきっかけは、農機具メーカー、井関農機の取材中に岸信介側近の衆議院議員・今松治郎と知り合ったことだった。井関農機の創業者である井関邦三郎と今松は同郷の同級生であり、邦三郎の息子・昌孝は青年会議所に所属していた。昌孝と親しくなった森は、「今松の選挙を手伝ってみないか」と持ちかけられ、承諾した。なお、牛尾治朗とも昌孝を通じて1963年頃に知り合っている。 今松の秘書を務めた後、1969年の第32回衆議院議員総選挙に旧石川1区から立候補。この選挙は10人が乱立する混戦模様で(自民党3、社会党1、公明党1、民社党1、共産党1、保守系無所属1、革新系無所属1、その他無所属1)、森は泡沫候補と見られていた。実際、田中角栄自民党幹事長は森を「泡沫候補」と呼んで公認を与えなかった。 自民党の公認は既に満杯だった。自民前職2人(坂田英一と井村重雄)が健康上の理由で出馬を断念したが、別川悠紀夫と奥田敬和が新たに公認を受け、森は公認を得られなかったため、保守系無所属で出馬することになった。 出馬に際し、森は今松の秘書を務めていた縁から、岸信介元首相による応援を岸の秘書である中村長芳を通じて要請。岸は森の要請を快諾し、はるばる石川まで応援に駆けつけた。60年安保闘争(森は「安保騒動」と呼ぶ)による悪影響を懸念する声もあった。森の親族も父と同じく出馬に反対の意見が大勢であったが、選挙直前の一族会議中に、近隣の家から出火した。この時、森は決死の覚悟で家にとびこみ、仏壇を抱えて出て来たという。当時の北陸地方は仏教への信仰が篤い土地柄であったこともあり、この行動は風向きを変えることになった。また、根上町内の森町長への信頼感と森を認めてこなかった既存の自民党組織・地方議員や奥田などへの反発から、町内では住民総出で選挙運動に協力する雰囲気となり、昼は老人と子供しか残っていないという有様であった。加えて、岸の応援で地元での人気が上昇し、下馬評を覆してトップ当選した。森は、無名の泡沫候補に過ぎない自分の応援のためにわざわざ駆けつけた岸に対し、終生恩義を忘れない姿勢を示しており、後年岸の外孫である安倍晋三が首相に就任した際は、後見人として安倍を支えることになる。 森の当選後、田中自民党幹事長は森を党本部に呼び、金を渡そうとした。森が反発すると、二階堂進が「(追加公認の)公認料および貸付金」と説明して、森に金を受け取らせた。森は田中の態度を見て、「この人とは絶対に席を同じにはできない」というものの金を返却することはなかった。帰途福田赳夫邸に寄って、さらなる資金援助を期待したものの、相手にされず空振りに終わった。 この選挙では同じ選挙区で奥田敬和も初当選しており、2人のライバル関係はのちに「森奥戦争」と呼ばれるようになる。石川1区では森の追加公認も併せて自民党が議席を独占したが、唯一の前職、桂木鉄夫は落選した。 立候補前は青年会議所においても、地元の小松に代議士になりたい者が何人も在籍していたためライバル視され、地元の会議所に入会させてもらえなかった。会議所が企画した催し物でもスピーカーを抑えて話をさせないようにされたと言う。それに憤った人達が「青朗会」を立ち上げ、森の選挙運動での中心組織となっていった。森が青年会議所に入会したのは衆院選初当選後、牛尾の引きによってであった。当初はライバル視故に反対されていたが、「東京で引き受ける」と会頭を務めていた牛尾が啖呵を切って、慌てた小松が森を受け入れたという。
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