議員在職50年と死去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:48 UTC 版)
三木は1984年(昭和59年)頃から体力の衰えが見られるようになった。しかしこの年の春から夏にかけて東南アジア三カ国歴訪と、スウェーデンの訪問予定があった。東南アジア歴訪ではタイのプレーム首相、インドネシアのスハルト大統領らとの会談を行った。東南アジア歴訪中も体調不良を見せていた三木は、帰国後も体調がすぐれなかったものの、軍縮議連会長として三木はスウェーデンを訪問、平和問題のエキスパートであったパルメ首相との会談を行った。スウェーデンから帰国した三木の打撃となったのが、明治大学の学生時代に下宿していた家の息子であり、三木の秘書を務め、そして参議院議員となっていた竹内潔の急死であった。竹内の葬儀の際に三木は立てなくなり、またこの頃から不眠に悩まされるようにもなり、軽井沢の別荘で静養に努めたものの、体力の衰えは明らかになってきた。 1985年(昭和60年)、三木は夏季、軽井沢の別荘でゆっくりと過ごし、大きな出来事もなかった。しかし1986年(昭和61年)2月5日、肺炎で緊急入院する。入院中にパルメが暗殺され、首相の中曽根から弔問に行って欲しいと打診があったが、体力に自信が持てなかった三木は断った。この頃には衆議院の解散総選挙への動きが出てきており、三木も3月15日にはいったん退院、出馬へ向けての準備を進めていたが、体力の衰えから、選挙活動に三木本人が出るのは難しいと考えられた。 6月2日に衆議院が解散するが、6月4日に脳内出血で倒れ、国立医療センターに入院となる。出馬するかどうか迷ったというが、選挙区での事情もあってすぐに辞めることも難しく、結局出馬した。選挙戦は娘の高橋紀世子が中心となって乗り切り、7月6日の第38回衆議院議員総選挙で三木は19回目の当選を果たす。 入院は続いていたが、病状は夏を過ぎると幾分回復し、院外外出もできるようになった。1987年(昭和62年)4月に議員在職50年を迎える。国会に登院して国会表彰の謝辞の演説を行いたいと、原稿を用意して演説の練習もしていたが、風邪を引き発熱したため出席は叶わなかった。病気で国会に登院できないことを気に病んでいて辞職も考えていたというが、同僚の国会議員たちの意見もあって結局辞職しなかった。体力は再び低下していった。 1987年(昭和62年)10月1日、国立医療センターから三井記念病院に転院する。この年の暮れ、すい臓に影があることが発見された。影はすい臓ガンであり、年齢や全身状態から手術は不可能であった。ガンの進行は早くなかったものの、1988年(昭和63年)9月には肝臓に影響が出るようになった。11月13日には親族に目が離せない状態となったとの連絡があり、翌14日、死去した。81歳だった。解剖の結果、すい臓からの出血が心不全を起こしたことが死因とされた。
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