議員候補時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/17 00:30 UTC 版)
「ジェイコブ・リース=モグ」の記事における「議員候補時代」の解説
政界に足を踏み入れたのは当時27歳の1997年の総選挙の時であった。リース=モグはスコットランドで長年労働党議員を排出してきたセントラル・ファイフ(Central Fife)選挙区の保守党候補者に選ばれた。当時の報道では、乳母と一緒にベントレーで選挙区を回ったことを揶揄された。リース=モグは後に使用車両はベントレーではなくメルセデス・ベンツであったと述べている。知名度が2%にも満たないリーズ・モグはこれまでの保守党候補者よりも圧倒的に低い9%の票数しか得られなかった。ただし、この年の保守党はスコットランドの全議席を失う1906年以来の大敗北を喫していた。 1999年、リース=モグの「時代錯誤に上流階級風な」(anachronistically posh)訛りが、選出可能性を下げていると噂されていた際、リース=モグはデイリー・テレグラフの寄稿者に擁護され、寄稿者の一人は「現在の、アメリカ化された、行動、話し方、服装をあえて避けようとする人に向けられた、あからさまな形の脅迫が存在する」(an overt form of intimidation exists, directed against anyone who dares to eschew the current, Americanised, mode of behaviour, speech and dress)と主張した。 リース=モグ自身も1999年5月23日のサンデー・タイムズ紙で「訛りについて騒ぎすぎるのはむしろ哀れなことだ」(it is rather pathetic to fuss about accents too much)と述べているが、その後「ジョン・プレスコットの訛りは確かに彼を愚か者としてステレオタイプ化している」(John Prescott's accent certainly stereotypes him as an oaf)と発言し、この発言については後に後悔して謝罪したと述べている。彼は後に「自分が何を話していようと、口を開いた途端に自分に好意的な有権者の数が減ってしまうことに、だんだんと気づいていった」と述べている。 2001年総選挙では、シュロップシャー州ワーキンの保守党候補となったが、現職の労働党議員ピーター・ブラッドリーに敗れた。 2006年、デーヴィッド・キャメロンが党の候補者リストに占める人種的マイノリティの割合を増す試みを批判し、「知的能力の高い人たちを苦しめることになる」「この国の95%は白人だ。候補者リストは国全体と全く異なるものにはなり得ない」と主張した。 2009年3月、リース=モグが署名したニュースレターが、1ヶ月以上前に新聞に掲載されたカヴァナの記事の一部を盗用していたことが明らかになり、リーズ・モグはザ・サンの当時の政治編集者であるトレヴァー・カヴァナ(英語版)に謝罪することを余儀なくされた。 2009年12月、地元の有権者と対話し、有権者が政府に「もっと正直さを示せ」(show more honesty)と呼びかけてるパンフレットを作成した。後にその「有権者」がリース=モグの投資会社の社員であることが明らかになり、批判を浴びた。 セント・ジョン・アンド・セント・エリザベス・カトリック病院(英語版)の理事も務めていたが、非カトリック的な倫理規定の採用を巡る長期間の議論の末に、2008年2月にコーマック・マーフィー=オコーナー枢機卿から辞任を命じられた。
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