諸堂とは? わかりやすく解説

諸堂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 14:31 UTC 版)

圓頓寺 (名古屋市)」の記事における「諸堂」の解説

鬼子母神堂尾張藩初代藩主徳川義直側室であった貞松院津田信益次女)が寄進した鬼子母神像を祀る。像は創建当時本堂同じく名古屋城天守閣の余材で作られたと伝わり、現在では毎月18日公開されている。現在の堂は1973年昭和48年)に再建されたもの。 長久稲荷

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諸堂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 23:15 UTC 版)

朝田寺」の記事における「諸堂」の解説

本堂 - 慶安5年1652年入母屋造 本瓦葺 昭和54年1579年3月23日三重県重要文化財指定梁間3間、桁行6間で、外陣内陣内内陣それぞれ2間に取る。本尊地蔵菩薩立像(国指定 平安前期)を安置する。なお国指定曽我蕭白筆『唐獅子図』は内陣地蔵菩薩安置する須弥壇東西本堂壁面板壁)に貼ってあったため、もとは壁貼り付け画である。 経堂 - もとは、南面3室(西より10畳・10畳・12畳半)、北面3室(8畳・8畳・10畳)で、四周を濡縁で囲む書院造り建物である。北面西の8畳は一段高上段の間となり、正面右に床、左に付け書院備えている。写真南面西側下り棟の鬼瓦で、「元禄十二歳 已卯二月吉日」のヘラ描き銘、南面東側下り棟の鬼瓦には、「元禄十一戊寅八月吉日 冨嶋九郎兵衛」のヘラ描き銘がある。このヘラ描き銘から、元禄11年1698年)から12年にかけて建立されたと考えられる山門 - 平成12年2000年大規模修繕工事竣工。なお作業中に山門落成年月記された、当時木札発見された。 鐘楼 - 平成23年半解修繕工事行い、瓦の葺き替え柱梁交換等を行った一部解体された弥肋堂から流用)。なおその際スダジイの下から弥肋堂のあった位置移築された。(木の下湿気溜まり老朽化早まるため) 書院 観音堂- 昭和21年昭和南海地震3日後に倒壊したため、現存していない。 弥肋堂- 安置されていた本尊仏像は、平成16年2004年)に本堂経堂の間に落成した受付棟のギャラリー移された。その後著し老朽化により平成22年2010年)に解体されたため、現存しない。現在、跡地には移築され鐘楼建っている。なお一部部材鐘楼大規模修繕の際に供出された。

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