諸堂
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「圓頓寺 (名古屋市)」の記事における「諸堂」の解説
鬼子母神堂尾張藩初代藩主徳川義直の側室であった貞松院(津田信益の次女)が寄進した鬼子母神像を祀る。像は創建当時の本堂と同じく名古屋城天守閣の余材で作られたと伝わり、現在では毎月18日に公開されている。現在の堂は1973年(昭和48年)に再建されたもの。 長久稲荷堂
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諸堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 23:15 UTC 版)
本堂 - 慶安5年(1652年)入母屋造 本瓦葺 昭和54年(1579年)3月23日、三重県重要文化財指定。梁間3間、桁行6間で、外陣・内陣・内内陣をそれぞれ2間に取る。本尊地蔵菩薩立像(国指定 平安前期)を安置する。なお国指定の曽我蕭白筆『唐獅子図』は内陣、地蔵菩薩を安置する須弥壇の東西の本堂壁面(板壁)に貼ってあったため、もとは壁貼り付け画である。 経堂 - もとは、南面3室(西より10畳・10畳・12畳半)、北面3室(8畳・8畳・10畳)で、四周を濡縁で囲む書院造りの建物である。北面西の8畳は一段高い上段の間となり、正面右に床、左に付け書院を備えている。写真は南面西側の下り棟の鬼瓦で、「元禄十二歳 已卯二月吉日」のヘラ描き銘、南面東側の下り棟の鬼瓦には、「元禄十一歳戊寅八月吉日 冨嶋九郎兵衛」のヘラ描き銘がある。このヘラ描き銘から、元禄11年(1698年)から12年にかけて建立されたと考えられる。 山門 - 平成12年(2000年)大規模修繕工事竣工。なお作業中に、山門落成年月の記された、当時の木札が発見された。 鐘楼 - 平成23年に半解体修繕工事を行い、瓦の葺き替え、柱梁の交換等を行った(一部の柱は解体された弥肋堂から流用)。なおその際、スダジイの下から弥肋堂のあった位置へ移築された。(木の下は湿気が溜まり老朽化が早まるため) 書院 観音堂- 昭和21年の昭和南海地震の3日後に倒壊したため、現存していない。 弥肋堂- 安置されていた本尊や仏像は、平成16年(2004年)に本堂と経堂の間に落成した受付棟のギャラリーへ移された。その後、著しい老朽化により平成22年(2010年)に解体されたため、現存しない。現在、跡地には移築された鐘楼が建っている。なお一部の柱や部材は鐘楼の大規模修繕の際に供出された。
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