読売サッカークラブ/ヴェルディ川崎(移転)
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「等々力陸上競技場」の記事における「読売サッカークラブ/ヴェルディ川崎(移転)」の解説
等々力陸上競技場の建設は1965年に発足した日本サッカーリーグ(JSL)の創生期に重なり、同競技場はJSLの公式戦会場としてしばしば利用された。特に、東京都稲城市と川崎市多摩区にまたがるよみうりランドを練習拠点として1969年に設立された読売サッカークラブは東京都内の国立霞ヶ丘競技場や国立西が丘サッカー場等を中心にしつつ、等々力でもホームゲームを開催した。1983年の第19回JSLでは、11月27日に行われた1部リーグ最終節で読売クラブが初優勝を飾った。 1993年の日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)発足時には、読売クラブが改名したヴェルディ川崎がホームスタジアムとして使用したが、等々力陸上競技場の観客収容数は約1万人弱で、従来のJSLから激増した観客数への対応は全く不十分だった。また、ピッチに敷設された天然芝の剥がれや枯れを隠すため、緑色に塗装した砂をピッチに散布した。鹿島アントラーズのJリーグ参加を実現するために新築された茨城県立カシマサッカースタジアムを除けば、当時のJリーグの各本拠地スタジアムの整備状況は大差はなかったが、人気チームであったヴェルディのチケットは入手困難な「プラチナチケット」となり、地上波での全国テレビ中継も多かったヴェルディ戦を通じて等々力の貧弱さが知れ渡った。 さらにヴェルディはJリーグ発足前から東京都への移転を希望していたが、Jリーグの基準に合うスタジアムがないという理由で川崎市(等々力)を本拠地としたという事情もあって、ヴェルディ側は東京都内への移転強行、さらには親会社である読売新聞社の渡邉恒雄社長がJリーグ脱退・新リーグ設立をも主張するほど強硬な姿勢だった。その圧力もあり、川崎市は1994年から1995年にかけて観客席の改築(2万5000人収容へ拡大)、大型映像装置の設置を行い、引き留めに動いた(「歴史」節を参照)。 ただし、ヴェルディはこの年まで3年連続出場したチャンピオンシップでの主催試合をいずれも東京都内の国立霞ヶ丘競技場陸上競技場で開催した。この頃からヴェルディの観客動員数が減少に転じ、渡邉が年間20億円を超える赤字を理由とした読売新聞社の経営撤退、それに伴う予算縮小と人気選手の退団、そして成績悪化という悪循環が続いて、ヴェルディ戦でのスタジアムは空席が目立つようになった。なお、1996年には鹿島アントラーズが11月9日のリーグ最終節(30節)に等々力でヴェルディに0-5で大敗したが、2位だった横浜フリューゲルスが敗れたため、この競技場でリーグ戦の年間初優勝を決めた。 読売新聞が撤退した1999年、経営の立て直しを図るヴェルディは再び東京都内への移転構想を発表した。同年発足のJ2リーグにフロンターレが参加し、川崎市の支援対象はこちらに移行したこともあり、今回は移転が実現した。フロンターレがJ1に昇格した2000年シーズンでの「川崎ダービー」(後述)開催を経て、2001年からはヴェルディが東京都へホームタウンを移転し当競技場からは撤退、調布市に新造された東京スタジアム(2003年より「味の素スタジアム」の呼称を利用)を本拠地とする「東京ヴェルディ1969」となった。川崎市はヴェルディの移転を容認した一方、今後の等々力陸上競技場でのヴェルディ主催試合開催を拒否することになった。その後、ヴェルディとフロンターレは2005年と2008年にともにJ1リーグで戦い、ヴェルディは両年のリーグ戦2試合、および2005年のヤマザキナビスコカップの1試合、計3試合で、アウェイチームとして等々力でフロンターレと対戦している。 ただし、株式会社よみうりランドの完全子会社である株式会社よみうりサポートアンドサービスはその後も等々力陸上競技場の芝生管理を受託し、2011年にはJリーグのベストピッチ賞を受賞して(後述)、過去の悪評を払拭した。
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