話し合いによる候補者一本化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 18:51 UTC 版)
「中曽根裁定」の記事における「話し合いによる候補者一本化」の解説
同年10月2日、安倍が総裁選出馬表明。10月3日、宮澤が出馬表明。10月5日、竹下が出馬表明。 同年10月7日、ホテルオークラで自民党最高顧問懇談会が開かれ、二階堂は福田赳夫、鈴木善幸両元首相から「政局安定」を理由に自重を促された。かつ当時立候補に必要であった国会議員50人の推薦人が集まらなかったことから、二階堂は告示を目前にして出馬を断念した。これにより、候補が4人以上の場合に行うと規定されていた予備選が実施される可能性は消滅した。したがって、一回目から党所属国会議員による投票が行われるか、話し合いにより候補者が一本化され無投票となるかのいずれかに絞られたが、どちらになるにせよ、発言力を残したまま退任する現職総裁の中曽根の意向が注目されることとなった。 同年10月8日、総裁選が告示される。禅譲によって影響力を残したい中曽根は、安竹の親友関係や角福戦争の後遺症に目を付け、安竹連合による選挙の実施を阻止するため、様々な情報を出して撹乱し、総裁選挙の実施を阻んだ。3候補の中では、議員票で劣る宮澤だけが話し合いに積極的であった。最大派閥の長である竹下が話し合いを受け入れた際には、竹下支持グループの小沢一郎らが「票数で勝るのになぜ話し合いを受け入れる」と公選を強硬に主張した。しかし、三角大福中時代の熾烈な党内抗争に辟易としていた安竹宮3人は、話し合いによる後継総裁決定を模索する。 安竹宮3人による話し合いは10月10日から6回行われたが、調整は最後までうまくいかなった。投票期限の10月19日、「候補者一本化を総裁に一任する」との報告が総裁・四役会議に出される。中曽根は調停役を引き受け、3人は候補辞退届を提出した。自民党の歴史の中で、「後継指名」や「裁定」の形をとったことは何度かあるものの(池田による佐藤指名、及び椎名裁定による三木指名)、有力候補が揃って退任間際の総裁に、自らへの指名を期待して裁定を仰ぐという異例な事態は、中曽根の巧みさとともに、ニューリーダーの「ひ弱さ」を印象づけることにもなった。中曽根は党本部の総裁室で福田赳夫、鈴木善幸、二階堂進の意見を個別に聞き、選考作業をすすめた。 10月20日午前0時、中曽根は党四役を総理官邸に呼び、選考結果を伝達した。同日午前0時25分、党本部の総裁応接室に待機する3人に対し、伊東正義政調会長が、中曽根が書いた「自民党総裁候補の指名について」という文書を読み上げた。指名されたのは竹下幹事長であった。中曽根は自らの延長任期中に廃案に追い込まれた「新型間接税」(消費税)の導入と、当時容体が日ごとに報道されていた昭和天皇の崩御に対応できる人物であるべきことを考慮したとされる(一説には、ポスト中曽根争いの際に竹下と安倍が口論になり、話し合いの末、「竹下総裁-安倍幹事長、ポスト竹下に安倍」と竹下に約束させたと言われているが、安倍晋三ら安倍側の関係者は否定している)。 中曽根の後継指名は極秘裏に進められ、かつ様々な煙幕を張っていたために、憶測が乱れ飛んだ。特に意図的にか、事前に裁定文の1枚目が漏れ、そこに「国際関係が重要である」といった趣旨のことが書かれていたため、外交経験が少ない竹下ではなく、安倍・宮澤が有力なのではないかといった予想が飛び交った。時事通信は「安倍総理誕生」と誤報を打った。また、総裁選挙の可能性が取りざたされていた頃、『ニュースステーション』は独自の総裁選シミュレーションを行ない、安倍総務会長が竹下、宮澤を抑え第12代自民党総裁に選出すると予測したりした。 先述の通り、公選実施による主戦論を唱えるメンバーが多かったのは安倍派も同様で、裁定が下された直後の安倍派の打ち上げでは、先輩政治家たちがお通夜のように静まりかえる中、遅れて料理屋に入ってきた安倍に対して、小泉純一郎はいきなり卓をダーンと叩き、「だからあんた、甘いんだよーッ!」と怒鳴りつけたという。あまりの剣幕に周囲は唖然として声もなく、安倍はただ黙って苦笑いするしかなかったと、同席した平沼赳夫は述懐している。
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