記者から漫画家へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/29 06:11 UTC 版)
「ラット (漫画家)」の記事における「記者から漫画家へ」の解説
マレーシアの首都、クアラルンプールに移り住んだラットは漫画家のポストを求めて『ブリタ・ハリアン』紙を訪問した。同紙の編集者アブドゥル・サマド・イスマイルはラットに欠員がないことを告げ、代わりに犯罪事件記者の職を提示した。ラットは承諾したが、本人によると気が進まない選択だったという。「どうやって食べていくかという問題だった。家族のために稼がなければいけなかったんだ」このころ父親は大病で働けず、一家の大黒柱としての責任はラットに負わされていた。ラットは記者として働きながら別の刊行物のために漫画を描いた。ラットは後に『ブリタ』紙の親会社『ニュー・ストレーツ・タイムズ』に移籍した。事件取材でクアラルンプールを隅々まで歩き回る中で、街頭を行き交う無数の人生と触れ合ったラットは、漫画の材料を蓄えるとともに世の中について理解を深めていった。しかしラット自身は、事件記者として成功するには被害者にずけずけと取材する押しの強さが足りないと感じていた。その上、犯罪被害を伝えるラットの「息を呑むほど克明でどぎつく、直截に描かれた惨状」は上司によって修正されることが常だった。ラットは自らが記者として不適格だと決め込み、悩んだあまり辞表を提出した。しかし、彼が報道の世界で大成すると信じていたサマドは辞表を突き返した。 ラットのキャリアが好転したのは1974年2月10日だった。漫画作品 Bersunat(ベルスナット)が香港の雑誌『アジア・マガジン』に掲載されたのである。ベルスナットはマレーシアのイスラム教徒が必ず受ける割礼式を意味する。同作は『ニュー・ストレーツ・タイムズ』紙の編集長タン・スリ・リー・シュー・イーの目にとまった。この意味深い儀式をユーモラスかつ精緻に描いた手際に感銘を受けたリーは、作者を自社に迎えるよう口やかましく命じたが、ラットがすでに自社に所属していると告げられて驚いた。ラットはリーに呼び出されて直接面談し、その結果社内での立場が一変した。『ニュー・ストレーツ・タイムズ』副編集長となっていたサマドはラットのためにコラム・カートゥーニストの地位を用意した。最初に与えられた職務は、Scenes of Malaysian Life(マレーシアの暮らしの断片)と題した連載で、各民族の結婚式などマレーシアの文化を綴ることであった。のちに社命によりロンドンのセント・マーチンズ・スクール・オブ・アートに四か月派遣され、そこで英国の風刺漫画と新聞に出会った。新しく学んだ文化に夢中になったラットは、マレーシアに戻ると Scenes of Malaysian Life を風刺漫画のシリーズに変えてしまった。この変更が好評を得たことで、1975年には創作活動に関して完全な自由を持つフルタイムの漫画家に任じられた。 ラットは着実に優れた風刺漫画を描き続け、マレーシア国民を楽しませた。1978年には二冊の作品集(Lots of Lat および Lat's Lot)が編纂されて一般に発売された。この時点でも Scenes of Malaysian Life の作者として名を成していたラットだが、国民作家の地位に上り国際的な認知を得るに至ったのは、次作の執筆によるものである。1979年、子供時代の経験を描いた自伝的漫画作品 Kampung Boy『カンポンボーイ』がブリタ・パブリッシングから刊行された。同書はベストセラーとなり、ラットの言葉によると第1刷(6 - 7万部)は発売から4か月で完売した。「自由なペンタッチによる白黒のスケッチ」と「簡素ながら多くの意味が込められた文章」で描き出された、「心温まる」マレーシアの村落生活は読者を虜にした。2009年までに同書のマレー語版は16刷を数え 、ポルトガル語、フランス語、日本語などの他言語版が海外数か国で発行された。『カンポンボーイ』の成功はラットを「マレーシアでもっとも著名な漫画家」の地位に押し上げた。
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