記者から文筆家へ、二度の結婚とは? わかりやすく解説

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記者から文筆家へ、二度の結婚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 04:12 UTC 版)

国木田独歩」の記事における「記者から文筆家へ、二度の結婚」の解説

1894年、『青年文学』に参加民友社入り徳富蘇峰の『国民新聞』の記者となる。この年起きた日清戦争海軍従軍記者として参加し、弟・収二に宛てた文体の「愛弟通信」をルポルタージュとして発表し、「国民新聞記者国木田哲夫」として一躍有名となる。 帰国後、日清戦争従軍記者招待晩餐会で、日本キリスト教婦人矯風会幹事 佐々城豊寿の娘・信子知り合う熱烈な恋に落ちるが、信子両親から猛烈な反対受けてしまう。信子は、母・豊寿から監禁された上、他の男との結婚強要されたという。独歩は、信子との生活を夢見て単身北海道渡り石狩川支流である空知川森林地帯土地の購入計画をする。「空知川の岸辺」はこの事を綴った短編である。 1895年11月信子佐々城家から勘当させることに成功し徳富蘇峰媒酌結婚逗子二人の生活が始まったが、余り貧困生活に耐えられず帰郷して両親同居する翌年信子失踪して協議離婚となり、強い衝撃を受ける。この顛末一部は後に有島武郎によって『或る女』として小説化された。一方信子側から視点では、信子親戚相馬黒光手記国木田独歩信子」を書いており、独歩理想主義的である反面、かなり独善的男尊女卑的な人物であった記されている。 傷心独歩は、蘇峰内村鑑三アメリカ合衆国行の助言を受けるが実現しなかった。 1896年明治29年)、東京府豊多摩郡渋谷村現・東京都渋谷区)に居を構え作家活動再開同年11月田山花袋松岡國男(のちの柳田國男)らを知り1897年独歩吟客」を『国民之友』に発表。さらに花袋、國男らの詩が収められた『抒情詩』が刊行されるが、ここにも独歩の詩が収録された。5月小説源叔父」を書く。なお、『欺かざるの記』の記述この頃まで。 1898年下宿大家の娘・榎本治(はる)と結婚する。治は、後に国木田治子の名前で小説発表し独歩社の解体までを描いた破産」を『萬朝報』に寄稿。『青鞜』の創刊にも参加している。

※この「記者から文筆家へ、二度の結婚」の解説は、「国木田独歩」の解説の一部です。
「記者から文筆家へ、二度の結婚」を含む「国木田独歩」の記事については、「国木田独歩」の概要を参照ください。

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