記紀より後の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 18:37 UTC 版)
『吾妻鏡』によれば、1185年(元暦2年)の壇ノ浦の戦いで、安徳天皇が入水し草薙剣(形代)も赤間関(関門海峡)に水没したとされる。この時、後鳥羽天皇は三種の神器が無いまま、後白河法皇の院宣を根拠に即位している。 足利尊氏は後醍醐天皇の建武の新政(建武の中興)に離反し、1336年(延元元年/建武3年)に光明天皇の北朝を立てて京都に室町幕府を開くが、後醍醐天皇は、北朝に渡した神器は贋物であるとして自己の皇位の正統性を主張し、吉野(奈良県吉野郡吉野町)に南朝を開き南北朝時代が始まる。正平一統の後に南朝が一時京都を奪還して北朝の三上皇を拉致する際に神器も接収したため、北朝の天皇のうち後半の後光厳天皇・後円融天皇・後小松天皇の3天皇は後鳥羽天皇の先例にならい神器無しで即位している。南朝の北畠親房は『神皇正統記』で、君主の条件として血統のほかに君徳や神器の重要性を強調したが、既に述べたように、神器無しでの即位は後鳥羽天皇が後白河法皇の院宣により即位した先例がある。 南朝保有の神器は、1392年(元中9年/明徳3年)に足利義満の斡旋による南北朝合一の際に、南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に渡った。 室町時代の1443年(嘉吉3年)に、南朝の遺臣が御所へ乱入し神器を奪う「禁闕の変」が起こり、剣と勾玉が後南朝に持ち去られたが、剣は翌日に早くも発見され、玉はその後1458年(長禄2年)に奪還された。 明治時代には、南北両朝の皇統の正統性をめぐる「南北朝正閏論」と呼ばれる論争が起こるが、最終的には明治天皇が、三種の神器保有を根拠に南朝を正統と決定する。 上皇明仁は1989年(昭和64年)1月7日に宮殿の正殿(新宮殿正殿)松の間での「剣璽等承継の儀」にて神器を継承した。このときは相続税法の非課税規定 により、相続税の課税対象にならなかった。 今上天皇は2019年(令和元年)5月1日に宮殿の正殿(新宮殿正殿)松の間で「剣璽等承継の儀」にて神器を継承した。譲位に伴う贈与税については、天皇の退位等に関する皇室典範特例法(2017年〈平成29年〉6月9日成立)付則で非課税とすることと定められた。
※この「記紀より後の時代」の解説は、「三種の神器」の解説の一部です。
「記紀より後の時代」を含む「三種の神器」の記事については、「三種の神器」の概要を参照ください。
- 記紀より後の時代のページへのリンク