記紀の酒折宮伝承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 02:35 UTC 版)
ウィキソースに古事記/中卷の原文があります。 行宮伝承 『古事記』・『日本書紀』(以下「記紀」)には、ヤマトタケルの東征伝承が記されている。ヤマトタケルの東征は『古事記』では尾張から相模・上総を経て蝦夷に至り、帰路は相模の足柄峠から甲斐国酒折宮へ立ち寄り、信濃倉野之坂を経て尾張へ至ったとしている。一方、『日本書紀』では尾張から駿河・相模を経て上総から陸奥・蝦夷に至り、帰路は日高見国から常陸を経て甲斐酒折宮を経由し、武蔵から上野碓日坂を経て信濃、尾張に至ったとしている。 帰路、甲斐国(現 山梨県)酒折の地に立ち寄って営んだ行宮が当社に因むとされている。行在中に尊が塩海足尼を召して甲斐国造に任じて火打袋を授け、「行く末はここに鎮座しよう」と宣言したため、塩海足尼がその火打ち袋を神体とする社殿を造営して創祀したと伝える。 記紀に記されるヤマトタケルの東征経路は、古代律令制下の官道においては往路が東海道、帰路が東山道にあたっている。また「倉野之坂」や「碓日坂」はいずれも令制国の国境に位置し、甲斐国は東海道と東山道の結節点に位置することから、酒折宮も「坂」に関係する祭祀を司っていた神社であると考えられている。 連歌伝承 また記紀には、滞在中のある夜、尊が 「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」 意味:常陸国(現 茨城県)の新治・筑波を出て、ここまでに幾晩寝ただろうか と家臣たちに歌いかけたところ、家臣の中に答える者がおらず、身分の低い焚き火番の老人が 「日々(かが)並(なべ)て 夜には九夜(ここのよ) 日には十日を」 意味:指折り数えてみますと九泊十日かかりました と答歌、尊がこの老人の機知に感嘆した伝えを載せ、『古事記』には彼を東国造に任命したと記載されている。 酒折宮伝承はこの2人で1首の和歌を詠んだという伝説が後世に連歌の発祥として位置づけられ、そこから連歌発祥の地として多くの学者・文学者が訪れる場所になった。
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