記紀での言及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/29 20:51 UTC 版)
『古事記』中巻の「神武記」には次のような一文がある。 故、坐日向時、娶阿多之小椅君妹・名阿比良比売生子、多芸志美美命、次岐須美美命、二柱坐也。 (大意)(神武天皇が)「日向」(ヒムカ)にいた頃、「阿多」(アタ)の「小椅君」の妹で名を阿比良比売(アヒラヒメ)を娶り、生まれた子が、多芸志美美命(タギシミミノミコト)、岐須美美命(キスミミノミコト)の2柱である。 一方『日本書紀』巻三「神武天皇紀」には、大筋で同じ内容となる次のような一文がある。しかしこちらには子の名前は「タギシミミ」のみ記されていて、岐須美美命に相当する人物の言及がない。 長而娶日向国吾田邑吾平津媛、為妃、生手研耳命。 (大意)(神武天皇は)長じて「日向(ヒムカ)国」の「吾田(アタ)邑」の吾平津媛(アヒラツヒメ)を娶って妻とし、手研耳命(タギシミミノミコト)が生まれた。 このほか『先代旧事本紀』巻六「皇孫本紀」には神武天皇と吾平津媛の2人の子として「手研耳命」と「研耳命」(キシミミノミコト)の名が登場する。が、巻七「天皇本紀」には登場しない。
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