装備の更新と建艦競争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 04:50 UTC 版)
「イタリア海軍」の記事における「装備の更新と建艦競争」の解説
第一次世界大戦後の経済不安・税収減により海軍装備の更新がままならず旧式化が進む中、イタリア国内で共産主義勢力を下し政権を取ったファシストの指導者、ベニート・ムッソリーニは、不況により沈滞していた国民感情を高揚させるため、地中海のイタリア化と古のローマ帝国の復興を宣言し、海軍には旧式化した艦艇の整備を命じた。膨張政策により国内企業は活気付き海軍予算も増えたことにより、まず駆逐艦の新造が始まり、さらにワシントン海軍軍縮会議により巡洋艦の基本建造プレゼンスが定まったことにより、旧態化した装甲巡洋艦や戦利巡洋艦の代艦として重巡洋艦・軽巡洋艦の新造が始まった。この行為は地中海の西部に位置するフランスの世論を悪化させ、世論の後押しを受けたフランス海軍が続々と大型駆逐艦や巡洋艦を整備したことにより、伊仏独三国間で建艦競争が勃発した。やがて、ドイツ海軍が「ドイッチュラント級装甲艦」を発表し、それに対抗してフランス海軍が1931年に新戦艦「ダンケルク級」の建造を発表したことにより建艦競争は頂点に達した。 この頃のイタリア海軍の戦艦戦力は、前大戦時に建造した「コンテ・ディ・カブール級」2隻(3番艦「レオナルド・ダ・ヴィンチ」は1916年8月2日に事故で喪失)と「カイオ・ドゥイリオ級」2隻で、どちらも速力20ノット台の低速戦艦でしかなく、イタリア海軍としてはフランス海軍が保有している弩級戦艦「クールベ級」3隻と超弩級戦艦「プロヴァンス級」3隻への抑止力程度の価値でしかなく、海軍としては経済が復興した暁には代艦を建造する予定であった。しかし、ダンケルク級の建造により戦力バランスはフランス優勢に傾いた。ダンケルク級に対抗すべく海軍は幾つかの小型・中型戦艦の設計案を検討したが、一から作ったのではフランスの新戦艦が先に竣工してしまうのは明らかだった。 そのため、急遽イタリア海軍は旧式戦艦4隻のうち最も古い「コンテ・ディ・カブール級」2隻に対して最新技術を用いた近代化改装を行うことを決定した。1932年のダンケルク級の起工に遅れること1年後の1933年にカブール級2隻がドック入りし、そして1937年4月の「ダンケルク」竣工に遅れること2ヶ月後の6月に「コンテ・ディ・カブール」の、更に4ヶ月後の10月に「ジュリオ・チェザーレ」の近代化改装を終えることにより辛くも間に合わせたのだった。しかし、1934年にはダンケルク級2番艦「ストラスブール」が起工しており、これに対抗すべくイタリア海軍は、主砲に38.1 cm砲9門を持つ排水量35,000トンの大戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト級」の第一グループ2隻建造を同年に発表。しかし、当然ながらヴェネト級の完成よりも先に「ストラスブール」が完成することは明白であり、ヴェネト級の完成までの穴埋めとしてカブール級に続いてカイオ・ドゥイリオ級2隻の近代化改装を1937年4月に開始した。しかし、この行為はフランス海軍には6隻の戦艦があるのにイタリア海軍に実働可能な戦艦がカブール級の2隻しかないということを意味していた。結局、カイオ・ドゥイリオ級2隻の改装完了とヴィットリオ・ヴェネト級の第一グループ2隻の就役は第二次世界大戦には間に合わなかった。しかし、フランス海軍は基準排水量35,000トンで38 cm砲8門を持つ新戦艦「リシュリュー級」2隻の建造を1935年に発表したため、イタリア海軍は間に合わないのを承知でヴェネト級を更に2隻追加建造することを決意し、1938年に相次いで起工した。
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