被災者の実態
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 21:26 UTC 版)
「昭和28年西日本水害」の記事における「被災者の実態」の解説
1947年(昭和22年)のカスリーン台風や1948年(昭和23年)のアイオン台風に匹敵する被害をもたらしたこの水害に対する政府の動きであるが、被災地は電話線が寸断され電話による通話が困難であり、災害状況は無線または電報を通じ、建設省九州地方建設局から建設省近畿地方建設局を経由して建設省本省へと現地の情報が送られた。 建設省から現地の被害が重大なものであると報告を得た当時の第5次吉田内閣は、ただちに大野伴睦国務大臣を本部長とする「西日本水害総合対策本部」を福岡市の福岡県庁に設置した。緒方竹虎副総理、戸塚九一郎建設大臣、山県勝見厚生大臣、保利茂農林大臣などの閣僚を現地に派遣したほか、発足したばかりの保安隊に災害派遣を命令、駐留アメリカ軍にも救援を依頼して救助活動や救援活動を行った。この水害のあと、政府は福岡・佐賀・熊本の被災者2,000名を対象に7月30日から8月7日まで「西日本水害に関する世論調査」を行った。水害における被災者の行動や被害実態、救助活動や支援活動に関する被災者の実態を調査する内容であったが、被災直後における被災者の実態や考えを垣間見ることができる。 まず「水害を何で知ったか」という質問に対して、回答者の55.4パーセント(以下「%」で記す)が「突然やってきた」と答えており、この水害が予測のつかなかったものであると認識していた。「自らの経験で予測できた」と答えた被災者が19.7%と次に多く、ラジオなどで知ったと答えたのは19.1%と少なかった。一方その後の水害情報の入手元についてはラジオが55.7%ともっとも多く、新聞が38.1%と続いており、予報よりもその後の被災情報にラジオ・新聞といった報道を活用していた。ちなみにデマが飛ぶということはほとんどなかったようである。 被災後の食糧・物資に関して、食糧調達については「自分でしのいだ」「他人の援助を受けた」という答えがもっとも多く、拮抗していた。被災者は何らかの方法で食糧を確保していたようだが、「食事がなかった」と答える被災者が18%いた一方で「困らなかった」と答える被災者も18.5%おり、被災地によって状況が分かれている。しかし飲料水については食糧に比べて困窮する割合が高く、全体の44%が雨水や他人から水をもらうことで何とかしのいでいた。災害後の物価に関しての質問では野菜類や米、麦の価格が高くなっていると答えた被災者が多く、道路・鉄道といった陸路が洪水によって寸断されたことで発生した交通麻痺や水害による農地流失が影響していることが考えられる。 政府の救援対策については「十分」24.9%、「不十分」21.7%、「よくわからない」45.8%と被災者の意識はさまざまであった。被災者間でもっとも評価されたのは食糧の無料配給で、39.2%が評価している。食糧配給については1日目 - 2日目に行われたと回答した被災者が50.3%に上り、被災直後より比較的速やかな食糧配給が行われたことも評価につながっている。また救援物資について37.9%の被災者が毛布・寝具、衣料がもっとも役立ったと答えた。保安隊による災害派遣については、65.1%の被災者が「ありがたかった」「役立った」と答えており、肯定的な意見が多かった。そして今後政府に求める被災対策としては、被災した商工業者に対する融資などの金融支援や税金の減免措置を求める声が多く、生活再建に対する被災者の不安がにじみ出ている。 なお、この水害は防ぐことができたかという質問に対し、被災者の38.4%が「天災だから防ぎようがない」と答えており、「護岸整備や治水で防ぐことができた」と答えた26.1%を上回っている。。
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