華族の公爵とは? わかりやすく解説

華族の公爵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 18:35 UTC 版)

公爵」の記事における「華族の公爵」の解説

1869年明治2年6月17日行政官達543号において公家武家最上層である大名家を「皇室藩屏」として統合した華族身分誕生した当初華族内において序列付けるような制度存在しなかったが、当初より等級付け求め意見があった。様々な華族等級案が提起されたが、最終的に法制局大書記官尾崎三良と同少書記官桜井能監1878年明治11年)に提案した上記古代中国官制由来する公侯伯子男からなる五爵制が採用された。中国古典籍なじんでいる者が多かった当時の人々違和感がないものだった考えられる1884年明治17年5月頃に賞勲局総裁柳原前光らによって各家の叙爵基準となる叙爵内規定められ従来華族旧華族)に加えて勲功者や臣籍降下した皇族叙爵対象加わり同年7月7日に発せられた華族令により、五爵制に基づく華族制度運用開始された。 公爵華族中でも最上位階級従一位相当)であり、全爵位中でも最も少数だった。叙爵内規では公爵叙爵基準について「親王諸王ヨリ臣位に列セラルル者 旧摂家 徳川宗家 国家偉功アル者」と定められている。公爵家の数は1884年時点では11家(華族家の総数509家)、1907年には15家(同903家)、1926年時には19家(952家)、1947年時には17家(889家)である。 華族そのものが「皇室藩屏」だが、公爵家はその中でも特に天皇近しい選民集団だった。皇族妃となるのは公侯爵の娘が多く、さらに公侯爵は伯子男爵家婚姻関係持ったので、皇族華族親類縁者集合体として一体化していった。天皇への拝謁には上から単独拝謁広間集団お迎えする列立拝謁廊下庭園などに居並ぶ通御懸け拝謁三種類あるが、公侯のような上級華族単独拝謁許されていた。また新年歌会始読師伯爵上の有爵者でなければならないとされていた。 華族使用人数は一般に爵位の高い家ほど多い傾向があるが、1915年大正4年)末時点における使用人数の平均侯爵家が43.7人から47.8名であるのに対し公爵家のそれは10名ほど少ない。侯爵家の方が資産家である旧大藩大名華族が多いためと思われる。特に旧公家華族経済的に困窮している家が多かったことから、明治27年1894年)には明治天皇結婚25周年記念で「旧堂上華族恵恤賜金」が作られ、その利子が旧公家華族支給されることになった配分公侯爵が3、伯爵が2、子爵が1という割合年間支給額では公侯爵が1800円、伯爵1200円、子爵600円だった。 1947年昭和22年5月3日施行され日本国憲法第14条法の下の平等)において「華族その他の貴族制度は、これを認めない。」と定められたことにより公爵位を含めた華族制度廃止された。

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