華族に対する処分
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/06 17:54 UTC 版)
徳子は刑事罰を受けなかったものの、宮内省は事件に関係した華族を処分する意向で、1933年12月17日には徳子の夫の吉井勇が隠居する意向を表明している。 華族に対する処分を決める宗秩寮審議会は同年12月21日に開かれ、審議の結果、徳子に対しては「礼遇停止」、近藤廉治・泰子夫妻に対しては華族の身分を剥奪する「除族」、徳子の夫の吉井勇伯爵と近藤廉治の兄の近藤滋弥男爵に対しては監督責任を問い「訓戒」とする処分が決まった。 なお、徳子の事件が発覚する少し前、徳子の父の柳原義光伯爵が男色相手の新派の元役者の男に手切れ金を脅し取られる事件が発覚している。白蓮と徳子に加えて自身にもスキャンダルが発覚したことで義光への処分も新聞では取り沙汰されていたが、審議会では処分の対象として議論にすらならなかった。新聞記者たちは義光の自宅にまで押しかけて進退を追及したが、義光は隠居も爵位返上もしなかった。皇室に近い柳原家への「配慮」が働いた結果、果断な処分に期待した国民を一層失望させることとなった。 この事件後、徳子は勇と別居し、離婚した。勇は後に別の女性と京都で生活することになる。叔母の白蓮は、事件発覚前に徳子にダンスホールに行くのをやめるよう説教し、子供のためにも離婚に及ばないよう世話をしていたが、騒ぎとなって新聞取材を受け、「姪がこのような問題を起こし、叔母として恥じる次第です。」と頭を下げている。徳子の所業を擁護こそしなかったものの、柳原家で四面楚歌であった徳子の唯一の味方であった。
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