荒川、広岡監督時代
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「東京ヤクルトスワローズ」の記事における「荒川、広岡監督時代」の解説
1974年 打撃コーチの荒川博が監督に昇格、コーチで入団した広岡達朗・沼澤康一郎・小森光生と「早大カルテット」を形成した。松岡が17勝、浅野啓司も防御率2位と活躍し、チームは60勝63敗7分けの勝率.488にて13年ぶりのAクラスとなる3位。 1975年 日本ハムとの交換トレードで大杉勝男を獲得したが結果は57勝64敗9分けの勝率.471の4位。シーズン終了後に武上四郎が引退。 1976年 5月12日、荒川博監督が成績不振を理由にシーズン途中で休養し、ヘッドコーチの広岡達朗が5月13日から代行となり、6月17日に監督就任。結局52勝68敗10分けの勝率.433の5位に終わり、国鉄時代の1962年からこの年まで15年連続シーズン負け越しを記録し、セ・リーグワースト記録となる。なお、全球団に負け越したにもかかわらず最下位を免れたのは、日本プロ野球史上初めてのケースだった。 1977年 大杉がこの年多くの記録を立て、9月14日の大洋戦では1イニング5本塁打の日本タイ記録を達成した。若松が2度目の首位打者、入団2年目のチャーリー・マニエルが42本塁打を放つ。62勝58敗10分けの勝率.517により、チームは球団創設以来初の2位に躍進。 1978年 前年の2位躍進に気をよくしたフロントは選手に対し「ブラジルへの慰安旅行」を計画したが広岡監督はこれに反対し「旅行するぐらいなら温暖な海外でキャンプを」と希望。これを受けて2月、球団史上初めて日本国外キャンプとなるアメリカ・ユマキャンプを行う。広岡の参謀として巨人時代の同僚だった森昌彦がヘッドコーチで入団、キャンプでテストを受けたデーブ・ヒルトンも加わり打線は厚みを増した。初優勝を狙うチームは前半を首位で折り返すも、後半に入り失速、3連覇を狙う巨人に抜かれ、8月には一時4.5ゲーム差を付けられるが、8月26日からの対巨人3連戦を松岡の完封、安田の連日の好リリーフで2勝1分けと持ち直し、巨人に代わり首位に返り咲く。9月に初めてマジックが点灯すると、9月19日のダブルヘッダー第2試合、さらに杉浦亨が連日のサヨナラ打を放った20日・21日と3試合連続サヨナラ勝ちを収め、下位球団相手に取りこぼす巨人を尻目に一気に加速、10月4日の対中日戦(神宮)で創立29年目で初のリーグ優勝を決める。日本シリーズではそれまで3年連続日本一だった阪急ブレーブスを4勝3敗で下し初の日本一。この年は開幕から129試合目まですべて得点を挙げていたが、最終戦の広島戦で大野豊に完封負けを喫し、全試合得点とはならなかった。なお、広岡監督が正力松太郎賞に、若松がチーム初のセ・リーグ最優秀選手に選出された。 1979年 マニエルの近鉄への放出を軸としたオフの補強に失敗し、開幕8連敗と大きく出遅れる。5月に盛り返し、5月27日にはマニエルに代わる新外国人ジョン・スコットがサイクル本塁打を放つ活躍で勝率を5割まで戻すが、その後は再び最下位を独走。8月にヘッドコーチの森が解任され、これに激怒した広岡が途中休養(指揮権放棄)し辞任。打撃コーチの佐藤孝夫が代理監督を務めた。結局このシーズンは48勝69敗13分けで8年ぶりの最下位。日本一の翌年に最下位に転落するのは、1961年の大洋以来18年ぶり2度目の不名誉。
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