荒川、広岡監督時代とは? わかりやすく解説

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荒川、広岡監督時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 10:07 UTC 版)

東京ヤクルトスワローズ」の記事における「荒川、広岡監督時代」の解説

1974年 打撃コーチ荒川博監督昇格コーチ入団した広岡達朗沼澤康一郎小森光生と「早大カルテット」を形成した松岡17勝、浅野啓司防御率2位活躍しチーム6063敗7分け勝率.488にて13年ぶりのAクラスとなる3位1975年 日本ハムとの交換トレード大杉勝男獲得した結果5764敗9分け勝率.471の4位。シーズン終了後武上四郎引退1976年 5月12日荒川博監督成績不振理由シーズン途中休養しヘッドコーチ広岡達朗5月13日から代行となり、6月17日監督就任結局526810分け勝率.433の5位に終わり国鉄時代1962年からこの年まで15年連続シーズン負け越し記録し、セ・リーグワースト記録となる。なお、全球団に負け越したにもかかわらず最下位免れたのは、日本プロ野球史上初めてのケースだった。 1977年 大杉この年多く記録立て9月14日大洋戦では1イニング5本塁打日本タイ記録達成した若松2度目首位打者入団2年目チャーリー・マニエル42本塁打放つ625810分け勝率.517により、チーム球団創設以来初の2位躍進1978年 前年2位躍進に気をよくしたフロント選手対しブラジルへの慰安旅行」を計画した広岡監督はこれに反対し「旅行するぐらいなら温暖な海外キャンプを」と希望。これを受けて2月球団史初め日本国外キャンプとなるアメリカ・ユマキャンプを行う。広岡参謀として巨人時代同僚だった森昌彦ヘッドコーチ入団キャンプテスト受けたデーブ・ヒルトン加わり打線は厚みを増した初優勝を狙うチーム前半首位折り返すも、後半入り失速3連覇を狙う巨人抜かれ8月には一時4.5ゲーム差付けられるが、8月26日からの対巨人3連戦松岡完封安田連日の好リリーフで2勝1分け持ち直し巨人代わり首位返り咲く9月初めマジック点灯すると、9月19日ダブルヘッダー第2試合、さらに杉浦亨連日サヨナラ打放った20日21日と3試合連続サヨナラ勝ち収め下位球団相手取りこぼす巨人尻目に一気加速10月4日対中日戦(神宮)で創立29年目で初のリーグ優勝決める。日本シリーズではそれまで3年連続日本一だった阪急ブレーブスを4勝3敗で下し初の日本一この年開幕から129試合目まですべて得点挙げていたが、最終戦広島戦大野豊完封負け喫し全試合得点とはならなかった。なお、広岡監督正力松太郎賞に、若松チーム初のセ・リーグ最優秀選手選出された。 1979年 マニエルの近鉄への放出を軸としたオフ補強失敗し開幕8連敗大きく出遅れる5月盛り返し5月27日にはマニエルに代わる新外国人ジョン・スコットサイクル本塁打放つ活躍勝率を5割まで戻すが、その後は再び最下位独走8月ヘッドコーチ解任され、これに激怒した広岡途中休養指揮権放棄)し辞任打撃コーチ佐藤孝夫代理監督務めた結局このシーズン486913分け8年ぶりの最下位日本一翌年最下位転落するのは、1961年大洋以来18年ぶり2度目不名誉

※この「荒川、広岡監督時代」の解説は、「東京ヤクルトスワローズ」の解説の一部です。
「荒川、広岡監督時代」を含む「東京ヤクルトスワローズ」の記事については、「東京ヤクルトスワローズ」の概要を参照ください。

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