芦田内閣
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芦田内閣 | |
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国務大臣任命式後の記念撮影
(1948年3月10日) |
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天皇 | 第124代 昭和天皇 |
内閣総理大臣 | 第47代 芦田均 |
成立年月日 | 1948年(昭和23年)3月10日 |
終了年月日 | 1948年(昭和23年)10月15日 |
与党・支持基盤 | 民主党、日本社会党、国民協同党、(緑風会[注釈 1]) |
成立事由 | 片山内閣総辞職 |
終了事由 | 内閣総辞職 |
前内閣 | 片山内閣 |
次内閣 | 第2次吉田内閣 |
内閣閣僚名簿(首相官邸) |
芦田内閣(あしだないかく)は、外務大臣・衆議院議員・民主党総裁の芦田均が第47代内閣総理大臣に任命され、1948年(昭和23年)3月10日から1948年(昭和23年)10月15日まで続いた日本の内閣。 前の片山内閣の総辞職に伴い、引き続き民主党・日本社会党・国民協同党を与党として発足した。
内閣の顔ぶれ・人事
国務大臣
1948年(昭和23年)3月10日任命[1]。在職日数292日。
職名 | 代 | 氏名 | 出身等 | 特命事項等 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|---|
内閣総理大臣 | 47 | 芦田均 | ![]() |
衆議院 民主党 |
外務大臣兼任 経済安定本部総務長官、 物価庁、中央経済調査庁長官 事務取扱 |
民主党総裁 |
法務総裁 | 2 | 鈴木義男 | ![]() |
衆議院 日本社会党 |
再任 | |
外務大臣 | 68 | 芦田均 | ![]() |
衆議院 民主党 |
内閣総理大臣兼任 経済安定本部総務長官、 物価庁、中央経済調査庁長官 事務取扱 |
再任 民主党総裁 |
大蔵大臣 | 53 | 北村徳太郎 | 衆議院 民主党 |
転任 | ||
文部大臣 | 64 | 森戸辰男 | ![]() |
衆議院 日本社会党 |
再任 | |
厚生大臣 | 16 | 竹田儀一 | ![]() |
衆議院 民主党 |
転任 | |
農林大臣 | 9 | 永江一夫 | ![]() |
衆議院 日本社会党 |
初入閣 | |
商工大臣 | 30 | 水谷長三郎 | 衆議院 日本社会党 |
再任 | ||
運輸大臣 | 9 | 岡田勢一 | 衆議院 国民協同党 |
初入閣 | ||
逓信大臣 | 52 | 冨吉榮二 | ![]() |
衆議院 日本社会党 |
初入閣 | |
労働大臣 | 2 | 加藤勘十 | ![]() |
参議院 日本社会党 |
初入閣 | |
国務大臣 経済安定本部総務長官 |
5 | 栗栖赳夫 | ![]() |
参議院 民主党 |
物価庁、 中央経済調査庁長官兼任 |
転任 1948年10月2日免 |
- | 芦田均 | ![]() |
衆議院 民主党 |
事務取扱 (内閣総理大臣、外務大臣兼任) |
1948年10月2日兼 | |
国務大臣 物価庁長官 |
5 | 栗栖赳夫 | ![]() |
参議院 民主党 |
経済安定本部総務長官、 中央経済調査庁長官兼任 |
転任 1948年10月2日免 |
- | 芦田均 | ![]() |
衆議院 民主党 |
事務取扱 (内閣総理大臣、外務大臣兼任) |
1948年10月2日兼 | |
国務大臣 行政調査部総裁 |
3 | 船田享二 | 衆議院 国民協同党 |
賠償庁長官兼任 | 初入閣 1948年7月1日免 |
|
(行政調査部廃止) | 1948年7月1日付 | |||||
国務大臣 行政管理庁長官 |
(行政管理庁未設置) | 1948年7月1日設置 | ||||
1 | 船田享二 | 衆議院 国民協同党 |
賠償庁長官兼任 | 転任 1948年7月1日任 |
||
国務大臣 建設院総裁 |
2 | 一松定吉 | ![]() |
衆議院 民主党 |
転任 1948年7月10日免 |
|
(建設院廃止) | 1948年7月10日付 | |||||
建設大臣 | (建設省未設置) | 1948年7月10日設置 | ||||
1 | 一松定吉 | ![]() |
衆議院 民主党 |
転任 1948年7月10日任 |
||
国務大臣 賠償庁長官 |
2 | 船田享二 | 衆議院 国民協同党 |
(行政調査部総裁→) 行政管理庁長官兼任 |
初入閣 | |
国務大臣 地方財政委員会委員長 |
2 | 野溝勝 | ![]() |
衆議院 日本社会党 |
初入閣 | |
国務大臣 中央経済調査庁長官 |
(中央経済調査庁未設置) | 1948年8月1日設置 | ||||
1 | 栗栖赳夫 | ![]() |
参議院 民主党 |
経済安定本部総務長官、 物価庁長官兼任 |
1948年8月1日兼 1948年10月2日免 |
|
- | 芦田均 | ![]() |
衆議院 民主党 |
事務取扱 (内閣総理大臣、外務大臣兼任) |
1948年10月2日兼 | |
国務大臣 (無任所) |
- | 苫米地義三 | ![]() |
衆議院 民主党 |
内閣官房長官兼任 | |
国務大臣 (無任所) |
- | 西尾末広 | ![]() |
衆議院 日本社会党 |
内閣総理大臣臨時代理 (副総理) 賠償庁総裁[2] |
転任 1948年7月6日免 |
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内閣官房長官・内閣官房次長
1948年(昭和23年)3月10日任命[1]。
職名 | 代 | 氏名 | 出身等 | 特命事項等 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|---|
内閣官房長官 | 3 | 苫米地義三 | ![]() |
衆議院 民主党 |
国務大臣兼任 | |
内閣官房次長 | - | 有田喜一 | ![]() |
運輸省 | 1948年3月15日任[3] | |
- | 福島慎太郎 | ![]() |
外務省 | |||
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政務次官
1948年(昭和23年)4月15日任命。
職名 | 氏名 | 出身等 | 備考 |
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法務政務次官 | 松永義雄 | 衆議院/日本社会党 | |
外務政務次官 | 伊東隆治 | 衆議院/民主党 | |
大蔵政務次官 | 荒木万寿夫 | 衆議院/民主党 | |
森下政一 | 参議院/日本社会党 | ||
文部政務次官 | 細野三千雄 | 衆議院/日本社会党 | |
岩木哲夫 | 参議院/民主党 | ||
厚生政務次官 | 喜多楢治郎 | 衆議院/民主党 | |
赤松常子 | 参議院/日本社会党 | ||
農林政務次官 | 大島義晴 | 衆議院/日本社会党 | |
平野善治郎 | 参議院/民主党 | ||
商工政務次官 | 正木清 | 衆議院/日本社会党 | |
駒井藤平 | 参議院/国民協同党 | ||
運輸政務次官 | 木下栄 | 衆議院/国民協同党 | |
植竹春彦 | 参議院/民主党 | ||
逓信政務次官 | 五坪茂雄 | 衆議院/民主党 | |
下条恭兵 | 参議院/日本社会党 | ||
労働政務次官 | 大矢省三 | 衆議院/日本社会党 | |
水橋藤作 | 参議院/日本社会党 | 1948年7月3日免 | |
経済安定政務次官 | 西村栄一 | 衆議院/日本社会党 | 1948年4月17日任 |
藤井丙午 | 参議院/緑風会 | 1948年4月17日任 1948年6月15日免 |
|
建設政務次官 | 天野久 | 衆議院/民主党 | |
地方財政政務次官 | 西郷吉之助 | 参議院/緑風会 | 1948年4月17日任 |
勢力早見表
※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。
名称 | 勢力 | 国務大臣 | 政務次官 | その他 |
---|---|---|---|---|
社会党 | 8 | 10 | 衆議院議長 | |
民主党 | 83 | 6 | 8 | 内閣総理大臣、内閣官房長官、官房次長(政務) |
国民協同党 | 2 | 2 | ||
緑風会 | 0 | 2 | 参議院議長 | |
15 | 22 |
首班指名投票
- 第2国会
- 1948年2月22日
-
<決選投票>
- 吉田茂(日本自由党)-104票、芦田均(民主党)-102票、白票-7票、無効-3票[注釈 3]
内閣の動き
芦田内閣成立前、衆議院は革新勢力が結集した日本社会党、保守二大政党の系譜を引く日本自由党、民主党の三党鼎立状態にあり、与党は社会党、民主党、国民協同党の三党連立により片山内閣を組織、自由党は社会党左派の日本共産党と近しい姿勢に反発して、当初は限定的な閣外協力の立場をとる。やがて片山内閣は、炭鉱国家管理問題や予算編成を巡り、執行部を抑える右派と、党内野党を宣言した左派の対立、自由党の閣外協力からの離脱、民主党や社会党右派の一部の離党などで収拾がつかなくなり、1948年2月10日、内閣総辞職。
後継を巡り、自由党は、連立内閣は政権運営の不手際によって総辞職したのであるから、憲政の常道に則って、野党第一党である自由党への政権譲渡を要求する。しかし、GHQ内で片山内閣の後見役を担っていた民政局は、反共を標榜する自由党の政権復帰を良しとせず、内閣総辞職が不可避となった2月6日の段階で、「もし内閣が総辞職した場合は議員の間で相談して多数派というようなものが生み出され、それによって内閣を選出することが可能であれば、この手段が一番民主的であると思う」と声明し、憲政の常道を曲げてでも、三党連立の枠組みの継続を望む意向を発表。社会・民主・国民三党の間での調整を経て、2月21日、首班指名選挙にて民主党の芦田総裁が首相に指名される。24日、民政局は「連立内閣が自発的に総辞職した場合に反対党に政権を引き渡すのは、民主主義を曲解するもので選挙民を裏切るものであり、権謀政治を招くものである」と、芦田支持の談話を発表。3月10日に正式に内閣発足する。15日、民政局の横やりで政権を逃した自由党は、民主党脱党組らと合同して民主自由党を結成し、時機を待った[6]。
芦田内閣の期間の政界は、これを追い落とそうとする民自党と、GHQ内でこれを後援した参謀第2部(G2)が結託して、連立与党および民政局との暗闘を繰り広げた。
まず、西尾副総理(社会党書記長)が土建業者からの政治献金を受領した件で衆議院不当財産取引調査会への証人喚問を受ける。西尾副総理は、政治語る西尾個人に対する献金だと証言するが、民自党ら野党は献金届出違反および偽証罪で告発。西尾副総理は予算成立までは与党に守られたのち、7月6日に大臣辞任に追い込まれ、翌日起訴された。なお、この起訴を巡ってはGHQ法務局から検察への圧力によるものだと証言されており、8月27日に無罪判決を得ている[7]。
そして、6月に発生した昭和電工事件では、復興金融金庫からの融資を受けていた昭和電工が政官界への大規模な接待工作を行っていたことが明るみに出る。9月30日、来栖安本長官が逮捕された他、チャールズ・L・ケーディス民政局次長以下民政局の面々も接待を受けていたことが暴露される。民政局側も反撃に出て、大野伴睦民自党顧問らを逮捕に追い込むが、10月6日には西尾元副総理がこちらでも逮捕される(後に無罪判決)。翌7日、芦田内閣はケーディス次長と協議の上、内閣総辞職に追い込まれた[8]。
後継を巡っては、民政局は吉田首班を回避すべく・与党第三党・国民協同党の三木武夫委員長や、民自党の山崎猛幹事長(山崎首班工作事件)を模索するもいずれも不発に終わる。10月14日、吉田総裁は首班指名を受けて政権復帰を果たす(第2次吉田内閣)。その後、ケーディスは本国に召還された失脚、芦田前首相も昭和電工事件で逮捕され、日本は吉田の長期政権の下、冷戦下での親米反共路線の下地がつくられてゆく[9]。左派政党が与党入りするのは、冷戦終結後の1993年に成立した細川政権まで待つことになる。
脚注
注釈
出典
- ^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」、昭和23年3月10日
- ^ 『きょう芦田内閣成立』 讀賣新聞 1948年3月10日(水曜日)朝刊
- ^ 『官報』第6352号、1948年3月20日、叙任及辞令、p.158
- ^ 第2回国会衆議院会議録第19号『官報』号外昭和23年2月22日付
- ^ 第2回国会参議院会議録第13号『官報』号外昭和23年2月22日付
- ^ 升味 1983, pp. 252–254.
- ^ 升味 1983, p. 255.
- ^ 升味 1983, pp. 256–259.
- ^ 升味 1983, pp. 260–265.
参考文献
関連項目
外部リンク
- 芦田内閣のページへのリンク