芝居の道へとは? わかりやすく解説

芝居の道へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:12 UTC 版)

尾上松之助」の記事における「芝居の道へ」の解説

1875年明治8年9月12日岡山県岡山市西中島町70番地現在の岡山市中区西中島町)に、父・幾三郎、母・花の3男1女の次男として生まれる。父は岡山池田藩二十一俵三人扶持下級武士だったが、明治維新後は遊廓地の西中島町貸座敷業を営んでいた。その影響幼いころから遊芸親しむようになり、之助は自伝で「三弦の響を眠り唄と聞いて育った」と語っている。 家の近くには旭座という芝居小屋があり、そこに上方歌舞伎大立者二代目尾上多見蔵一座組織していたが、実家商売商売だけに一座懇意だった縁で多見請われ5歳時に菅原伝授手習鑑』の菅秀才役で初舞台を踏む。この時にある人の周旋尾上多雀(多見雀・多若の説もある)という名をつけられた。母はこの初舞台を非常に喜び抱え芸娼妓三味線踊り教え来ていた山村イチ遊芸仕込んでもらう。これがきっかけ9歳頃から子供芝居出演するようになり、『本朝廿四孝』の横蔵や『嫗山姥』の山姥役を得意とした。 この間岡山環翠小学校入学成績秀で尋常科卒業して国清寺にあった高等科進み、英語も習う。相変わらず芝居好きだったが、高等科3年修了後、役者になることを快く思わなかった父によって、市内上之町呉服屋奉公させられる。しかし、どうしても役者になりたくて、父に頼んで子供芝居出演するとこれが好評で、芝居打ち上げの後に家出をし、神戸知り合い頼って弁天座の浅尾與作一座に加わる。知り合い連絡訪ねてきた父により一旦岡山帰るが、諦めきれない之助は父を何とか説得して許され、「一人前立派な者になるまで、家の敷居をまたぐな」と言い渡される。その数日後青年芝居一座加わって旅役者として山陰巡業の旅に出る。14歳の時である。 1892年明治25年)、松山巡業中に尾上三郎改名。翌1893年明治26年11月24日に父が死去巡業先に貸座敷業をやめた母が之助の弟と妹を連れて転がり込んでくる。年が明けて1894年明治27年)、母と弟妹連れて広島から下関北九州へと巡業続けるが、同年夏に日清戦争開戦する芝居どころではなくなる。一座作る悪戦苦闘し小倉安宿では宿賃払えず、冬物預けて4人とも着のみ着のままの姿になり、進退窮まった所を旅先豪農拾われて、九死に一生得たりする。やがて下関市川市一座入って多少給金を得る様になり、翌1895年明治28年正月には、博多明治座五代目實川正若・嵐若橘一座に出演その間に弟を大阪知人の許へ奉公にやる。博多打ち上げ後下関徴兵検査をすませ、それから間もなく4月下関条約結ばれるとともに芝居人気取り戻し大阪市西区松島に居を構えて巡業続けた

※この「芝居の道へ」の解説は、「尾上松之助」の解説の一部です。
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