芝居の道へ
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1875年(明治8年)9月12日、岡山県岡山市西中島町70番地(現在の岡山市中区西中島町)に、父・幾三郎、母・花の3男1女の次男として生まれる。父は岡山池田藩の二十一俵三人扶持の下級武士だったが、明治維新後は遊廓地の西中島町で貸座敷業を営んでいた。その影響で幼いころから遊芸を親しむようになり、松之助は自伝で「三弦の響を眠り唄と聞いて育った」と語っている。 家の近くには旭座という芝居小屋があり、そこに上方歌舞伎の大立者・二代目尾上多見蔵が一座を組織していたが、実家の商売が商売だけに一座と懇意だった縁で多見蔵に請われ、5歳の時に『菅原伝授手習鑑』の菅秀才役で初舞台を踏む。この時にある人の周旋で尾上多雀(多見雀・多若の説もある)という名をつけられた。母はこの初舞台を非常に喜び、抱えの芸娼妓に三味線と踊りを教えに来ていた山村イチに遊芸を仕込んでもらう。これがきっかけで9歳頃から子供芝居に出演するようになり、『本朝廿四孝』の横蔵や『嫗山姥』の山姥役を得意とした。 この間に岡山環翠小学校に入学、成績優秀で尋常科を卒業して国清寺内にあった高等科へ進み、英語も習う。相変わらずの芝居好きだったが、高等科3年を修了後、役者になることを快く思わなかった父によって、市内上之町の呉服屋に奉公させられる。しかし、どうしても役者になりたくて、父に頼んで子供芝居に出演するとこれが好評で、芝居打ち上げの後に家出をし、神戸の知り合いを頼って弁天座の浅尾與作一座に加わる。知り合いの連絡で訪ねてきた父により一旦岡山へ帰るが、諦めきれない松之助は父を何とか説得して許され、「一人前の立派な者になるまで、家の敷居をまたぐな」と言い渡される。その数日後に青年芝居の一座に加わって、旅役者として山陰巡業の旅に出る。14歳の時である。 1892年(明治25年)、松山巡業中に尾上鶴三郎と改名。翌1893年(明治26年)11月24日に父が死去。巡業先に貸座敷業をやめた母が松之助の弟と妹を連れて転がり込んでくる。年が明けて1894年(明治27年)、母と弟妹を連れて広島から下関・北九州へと巡業を続けるが、同年夏に日清戦争が開戦すると芝居どころではなくなる。一座を作るも悪戦苦闘し、小倉の安宿では宿賃も払えず、冬物を預けて4人とも着のみ着のままの姿になり、進退窮まった所を旅先の豪農に拾われて、九死に一生を得たりする。やがて下関の市川市紅一座に入って多少の給金を得る様になり、翌1895年(明治28年)正月には、博多・明治座で五代目實川正若・嵐若橘一座に出演、その間に弟を大阪の知人の許へ奉公にやる。博多打ち上げ後、下関で徴兵検査をすませ、それから間もなくの4月に下関条約が結ばれるとともに芝居の人気も取り戻し、大阪市西区松島に居を構えて巡業を続けた。
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