興業のアイディア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 00:02 UTC 版)
斎藤が経営主となった1960年代は、まだ娯楽が少なかったことから、斎藤の劇場は若さ、ダンス、アイディアをによる舞台で連日満員だった。例えば日本国外の踊り子が人気と見るや、斎藤は彫りの深い顔の踊り子を、髪を金髪に染めさせ「日本語を喋るな」と言って、舞台に上げさせた。踊り子の股間を隠すバタフライ(前貼り)に紐をつけ、客が引くと一斉に布がめくれ上がる、といった余興もあった。 佐野の劇場では、客が自家用車で乗り付けると、その客を劇場の入口で降ろし、従業員が車を駐車場まで運ぶという、ホテルのようなサービスで好評を得た。昼に小屋が開くとあっと言う間に客席は満杯になることから、舞台の袖にパンと牛乳を用意して、客席に無料で配るという、女性ならではのサービスも考えた。大勝館(後述)でも、待ち行列を成す客たちにヤクルトを配っていた。 1988年(昭和63年)からは、ロック座の踊り子に、アメリカのラスベガスで3か月間の訓練を受けさせていた。客に対して「常に本物の芸を提供したい」との考えによるものであった。6部屋ある邸宅を2世夫婦のまかないつきで借り、レッスン場に通わせ、1日5回、夜までのレッスンで、フランス人教師のもと、歩き方からフレンチカンカンまで習わせた。「1人約80万円かかるが、3か月間で1年分の成果が上がる。日本で教わるより実質的には安上がり」と語っていた。 平成期、AV女優たちがストリップ劇場に多く出演するようになっても、斎藤は毎年1月と8月の2回、手持ちの踊り子たちをロック座に呼び戻し、本場仕込みの艶やかなダンス中心のショーを創ろうと、連日深夜までリハーサルを続けていた。踊り子たちを指導する斎藤の声は、脇に座る演出家を気圧す勢いで、周囲には誰も近づけないほどだった。 他の劇場でタッチショーやポラロイドショーが流行しても、斎藤の浅草ロック座ではそれらを一切行わず、ダンスだけに拘った。他にも過激なショーにはレズビアンショー、天狗ベッド、まな板ショーなどがあるが、斎藤はそのどれも嫌っていた。初めて関西で観劇したときには、癲癇を起こしそうなほど驚いたという。「戦後の日本のストリップは、『客が踊り子と絡める、触れる』という過激さを売りにしてきた。でもロック座の目指すのは、品のあるストリップ」と強調していた。自身の劇場でレズビアンショーなどを行なわないのには、踊り子が不感症になれば嫁の貰い手が無いとの気遣いもあった。 「色気は裸を見せるのではなく、見せるようにして見せないところにある」との考えから、自身が踊り子として舞台に立ったときは、髪を長く伸ばして体を隠した。舞台に立つ際は、事前に楽屋で他の踊り子が用意したビールを一気に煽って舞台に立った。経営者となった後も、踊り子たちに同様に髪を伸ばすことを勧めていた。好みからショートヘアにする踊り子もいたが、個性を大事にし、敢えて無理強いはしなかった。裸になることに拘りのない踊り子が増えた時代となっても、斎藤は「恥ずかしさ」という気持ちを大事にした。「恥じらいがなければ色気は生まれない」とも語っていた。
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