編集工学者として
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1982年に工作舎を退社し、松岡正剛事務所を設立して独自の活動を開始する。古代から現代まで続く「情報」そのものの歩みを年表化した大作『情報の歴史』を編纂するために各ジャンルの知識人を集め、この本の監修を務める。この仕事が発展し、1987年に株式会社編集工学研究所を設立することになる。(現在、編集工学研究所は丸善 の子会社となっている) 1984年からは、NTTが主催する「情報文化研究フォーラム」の座長を務める。ジャンルを超えた各界の研究者と議論を交わしながら、情報文化に関する考察を深めていく。また、同時期にNTTの広報戦略アドバイザーの役も担い、グループCFの制作、監修を行う。情報と生命、情報と歴史という視点から映像化した「進化篇」「擬態篇」「図書館篇」といったCFシリーズを生み出し話題を呼んだ。同CFシリーズのうち、「図書館篇」はカンヌ国際広告祭のブロンズ賞を獲得した。この頃からテレビ番組の構成なども務めるようになり、1984年からはじまった『極める』シリーズ(テレビ東京系列)を監修した。また『ニュードキュメンタリードラマ昭和 松本清張事件にせまる』(テレビ朝日系列)の企画構成、『ときの探訪』(中部日本放送)の監修も担当。『世界一受けたい授業』(日本テレビ)には2005年から構成協力として参加している。 1990年に放送がはじまった『日本人のこころ』(NHK)では、五木寛之、田中優子とともにレギュラー出演し、日本各地を歩き回りながら、日本文化に潜む魅力とその可能性について討論を交した。また、この時期、リチャード・ワーマン著『情報選択の時代』『理解の秘密』をたて続けに監訳。当時、情報建築家として世界的に注目されていたワーマンを日本ではじめて紹介する。 1995年、愛知県岡崎市の美術館計画にプロデューサーとして関わる。目に見えないもの(心の風景)を感じるという意味から、館名を「マインドスケープ・ミュージアム」と名づけた。 1997年からは、岐阜県で織部賞を開始、総合プロデューサーを担当し、ジャンルを問わずに内外の様々な人物を顕彰する。また、帝塚山学院大学に招聘され、教授としてゼミを担当した。このゼミの内容は1冊の本に編集され、2006年に『17歳のための世界と日本の見方』として春秋社から出版され、4万部を売り上げた。
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