編集局長として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 03:37 UTC 版)
圓城寺は1945年から1956年までの十年にわたって編集局長として日経のエディター・シップを一手に握り続け、「兜町新聞」と陰口を叩かれていた日経を、朝日、毎日に決してひけをとらない質を備えた、しかも経済紙として独自のステイタスを築けるようなクォリティ・ペーパーに何とか変身させようと辣腕をふるっていく。朝刊が八ページしかなかった時代に経済情勢の解説や「やさしい経済学」といった一般庶民が敬遠するような高尚な記事にまるまる一ページを割いてしまったり、今までの日経になかった科学欄、美術欄を次々と新設していった。やがて訪れる日本の高学歴化を先取りするような紙面のレベルアップだった。また、編集局長になってすぐ、部下に社内シンクタンク構想の準備に取り掛かるように指示し、彼が編集局長時代には実を結ばなかったが、常務になって三年目の1958年3月、経済研究室(現:日本経済研究センター)として実現にこぎつける。
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