続篇への意欲・死
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1931年(昭和6年)12月20日過ぎ、基次郎のもとに『中央公論』新年特別号が届けられ、24日には初めての「原稿料」230円を得た。これまでの作品は同人誌掲載のものばかりだったため、基次郎にとってそれは〈はじめての経験〉で職業作家になった喜びを実感した。そして、これまで間接的に田中西二郎への口添えをしてくれていたであろう人々(北川冬彦、横光利一、川端康成)への感謝の気持を北川に伝えた。 1932年(昭和7年)1月下旬、少し落ちつきながらも絶対安静の病床の身で、〈早く起きて小説が書き度い〉と、基次郎は『のんきな患者』の続篇を出すことを考え、〈「のんきな患者」が「のんきな患者」でゐられなくなるとこまで書いてあの題材を大きく完成したいのですが。それが出来たら僕の一つの仕事といへませう〉と語っていた。この頃、森鷗外の歴史小説や史伝を読み、〈古い大阪〉というテーマを、〈自分の一生といふこと〉と含めて考えていた。 僕はのんきな患者で、これまでの自分の文学からはちがつて来た、またちがつてゆくつもりを持つてゐる、僕は昔は気持よい自然観照の眼から一度自分の行手 自分の病気といふことを振返つて見ると やけくそにならざるを得ないやうな気持になつて、それがあのやうな未熟な作品になつたかと思ふが やはり人間といふものはやけくそではいけないものといふことが僕にもわかつて来たので それは文学といはず僕の生活全体をその方に向けるつもりで僕もゐる、非常にあたり前でつまらないやうだが 絶望しながら生きてゐるといふことは結局僕には出来ない — 梶井基次郎「中谷孝雄宛ての書簡」(昭和7年2月5日付) 基次郎は31歳の誕生日の少し前には、〈病中ながらも心にある落付きを見出し〉て、家賃や電燈・瓦斯代、汲み取り便所の料金などを自分で払う生活を〈大層楽しみに思へ〉ていた。また、末期的な病状に近づきつつある心境を、〈病気もかういふ風にはつきりした形をとつて来ると そのうつり変つてゆく状態を経験しながら感じることは 必然的に僕に哲学的な思念を強ひるやうになる〉と語っていた。 そして春になっても好転することなく、辛抱しきれない苦しい時は、死ぬ間際のことを空想し、辛抱し通す練習をしたりした。しかしそんな風に何度か練習していた或る瞬間に、〈ほんとに俺はいつかかういふ風にして死ぬのか?〉と急に慌て出した。基次郎はその自分の気持を分析して断片的に綴った。 慌てるといふのは語弊があるかもしれない、心の最も最後の奴が自分が何時かは死ぬといふことをどうしても受け付けない、嫌がるのだ。それからあとはどう考へても死ぬのが嫌だ。それで煩悶した。一昨日の夜は夕方より熱が少し高くいろいろのことに癇癪を立て深更に至つた、すると熱のだんだん引いてくるとともに近来になく頭が澄み切つて来て 自分の運命が玻璃鏡に現れるやうに現はれた、勿論それは苦しい運命だ、すると卑怯のやうだが急に死といふものが親しく見え出した いかにもそれは最後の安息だといふ気がするのだ。 — 梶井基次郎「日記 草稿――第十六帖」(昭和7年) その後、2月27日以降は友人らへ手紙も書けなくなり、3月17日で日記も途絶え、3月25日に基次郎は亡くなった(詳細は梶井基次郎#本格小説家への夢――途絶を参照)。『のんきな患者』は生前発表された最後の作品となった。
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