絹本墨画淡彩以亨得謙像とは? わかりやすく解説

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絹本墨画淡彩以亨得謙像(経行像)

主名称: 絹本墨画淡彩以亨得謙像(経行像)
指定番号 1875
枝番 02
指定年月日 1987.06.06(昭和62.06.06)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 絵画
ト書 建久四年定巌浄戒の賛がある
員数 1幅
時代区分
年代
検索年代
解説文:  見心来復延祐六年(一三一九)に生まれ洪武二十四年(一三九一)に没したが、その死は悲惨であった。明の太祖国土統一する諸国名僧京師招いた。見心来復もその招きに応じて京師行き、後、僧録司の左覚義の職に就じ、仏教界の管理行政枢要参加したのだが、洪武二十四年胡推庸の獄が生じた時、太祖風刺した詩を作ったことで連座極刑遭ったのだった詩文の才が却って仇となったのである
 この見心来復肖像にはその自賛の他に、元来文人として著名な翰林承旨張〓一二七三一三六八)の撰文能書家であった張彝書した賛があり、これらに依ると画像至正二十五年に入元僧以亨徳謙が帰国に際して見心来復の法を嗣ぎ、師の肖像を画かせたものと知られる入元僧は大変多いが、来復法嗣となった者は以亨徳謙唯一人である。あるいは、以亨徳謙は詩才があり、中国において文人との交友深かったから、詩名高かった来復心を寄せたのかもしれない肖像は円の中に半身画いた鏡像である。元時代はこうした肖像が行われていたが他に遺例はなく大変珍しい。文人に賛を求めているところもいかにも中国習慣風潮見せて興味深いものがある。肖像彩色剥脱があるが、容貌比較良く残っており、有機質の色料を用いた生々しい表現まことに中国的な感覚伝えている。
 以亨徳謙の正確な生没不明であるが、寺の過去帳伝えるところでは応永九年(一四〇二)七月二十四日を亨年と伝えている。入元の年も不明であるが、定巖浄戒の賛によると在元三十年及んだという。至正二十五年、すなわち我が貞治四年(一三六五)に帰国し南禅寺建長寺円覚寺にあって活躍した。詩が豊かであり、五山文学興隆功績者の一人とされる晩年のことは不明であったが、この肖像発見によって九州の地に在ったことが判明した。この意味でも貴重な肖像ということができる。
 賛を著けている定巖浄戒僧録司の左講経の職に在った僧である。その職は見心来復任じていた左覚義よりは一つ上の階級であるが、ともあれ中国に縁を求め時代の風潮をこれも示している。その賛に依ると建文四年、すなわち応永九年(一四〇二)に寿像送り、賛を得たものと知られる常識的に老齢達したのでその肖像画き、これを海を越えて送った考えられるが、白描的な味わい持った画法黒々とした樹幹を持つ表現中国的であり、絹地またそうした特色持っており、以亨徳謙が帰国する時に、彼地の人から画き贈られたと見るべきものと思われる肖像画松下経行する姿を画いている。これもまた形式的には珍しい肖像画である。
 以上二つ画像は師である中国僧とその法嗣で、その画像将来した我が国の僧の肖像である。我が国の僧が師の肖像として将来した画像遺例意外に多くはない。しかも師弟肖像画が共に伝わるという例は少な事例属する。日中交流興味深い貴重な遺例というべきである。



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