結成:1966-1968
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「レッド・ツェッペリン」の記事における「結成:1966-1968」の解説
1966年、ロンドンを拠点にセッションギタリストとして活動していたジミー・ペイジはベーシストとして、ポール・サミュエル=スミスが脱退したヤードバーズに加入した。程なくしてペイジはクリス・ドレヤと入れ替わってギターを担当することとなり、ジェフ・ベックとのツインリードのラインナップが形成された。1966年10月にベックが脱退し、絶え間ないツアーとレコーディングに疲弊していたヤードバーズはその活動を縮小し始めた。ペイジは自身とベックがギターを担当し、ドラムにキース・ムーン、ベースにジョン・エントウィッスルを迎えてスーパーグループを結成することを考えており、ボーカリストのスティーヴ・ウィンウッドとスティーヴ・マリオットをこのプロジェクトに加えることも検討された。ペイジ、ベック、ムーンは1966年にベーシスト、キーボード奏者のジョン・ポール・ジョーンズも参加したセッションで「ベックス・ボレロ」を一緒に録音したが、グループは結成されなかった。 ヤードバーズは1968年7月にベッドフォードシャーのルートン工科大学で最後のギグを行った。彼らはまだスカンジナビアでいくつかのコンサートを行う予定があったため、ドラマーのジム・マッカーティとボーカリストのキース・レルフは、ペイジとベーシストのクリス・ドレヤにヤードバーズの名前を使って活動を継続することを認めた。ペイジとドレヤは新しいラインナップをまとめ始めた。リードボーカルのペイジの最初の選択はテリー・リードだったが、リードは申し出を断り、バンド・オブ・ジョイとホブストウィードルのシンガーであるロバート・プラントを提案した。プラントは最終的にその申し出を受け入れ、ドラマーに元バンド・オブ・ジョイのジョン・ボーナムを推薦した。ジョン・ポール・ジョーンズはドレヤが写真家になるためにプロジェクトから脱退した後、妻に勧められベーシストの空きがあるかをペイジに尋ねた。ペイジは自分と同じくセッションミュージシャンであったジョーンズのことを知っており、彼を最終メンバーとして参加させることに同意した。 1968年8月、4人はロンドンのジェラード・ストリートにあるレコード店の下の部屋で初めて一緒に演奏した。ペイジは、ヤードバーズもカバーしていたジョニー・バーネットのロカビリーバージョンで人気があったジャンプ・ブルース曲「トレイン・ケプト・ア・ローリン」の演奏を提案した。ジョーンズは「ジョン・ボーナムの演奏を聴くやいなや、このバンドが偉大になるとわかった。僕たちは、すぐにチームとしてともにロックした」と回想している。スカンジナビアに向けて出発する前に、グループはP・J・プロビーのアルバム『スリー・ウィーク・ヒーロー』のレコーディングセッションに参加した。プラントのハーモニカをフィーチャーした同アルバムの収録曲「Jim's Blues」は、レッド・ツェッペリンの将来の4人のメンバー全員が参加した最初のスタジオトラックだった。 バンドは1968年9月7日、デンマークのグラッドサクセにあるグラッドサクセ・ティーン・クラブにおいて、オーディエンスの前で初めて演奏した。このスカンジナビアンツアーでバンドは「ヤードバーズ」として告知され、9月24日のノルウェー、オスロでツアーを完了した。9月後半に彼らはライブセットに基づいたファーストアルバムのレコーディングを開始した。アルバムは9日間で録音およびミックスが行われ、ペイジが費用を負担した。アルバムの完成後にドレヤが停止通告書を送付し、バンドは名前の変更を余儀なくされ、ペイジはスカンジナビアでのコンサートにのみニュー・ヤードバーズの名称を使用することが許可されたと述べた。新しいバンドの名前がどのように決定したかについての一説は、ベックのシングル録音のために行ったセッションで、キース・ムーンが「もしも俺たちが今いるバンドを辞めたら、きっと向こうは鉛の気球(lead (発音は[led]) balloon)みたいに急降下するだろうぜ」と発言したことによるとされる。「go down like a lead balloon」は「ぽしゃる」という意味の慣用句で、ムーンの口癖であったという。同席していたマネージャーのピーター・グラントがこの時のムーンの言葉からヒントを得て、([li:d]と誤って発音されるのを避けるため)「lead」から「a」を落として「led」に、「balloon」は「zeppelin」に置き換えられた。「zeppelin」は音楽ジャーナリストのキース・シャドウィックによると、ペイジの心に「重さと軽さ、可燃性と優雅さの完璧な組み合わせ」をもたらした言葉であるとされる。 グラントは1968年11月にアトランティック・レコードから143,000ドルの前払い契約(現在の価格で1,030,000ドル)を確保した。当時、この種の新しいバンドとしては最高額の契約だった。アトランティックは主にブルース、ソウル、ジャズのアーティストのカタログを持つレーベルだったが、1960年代後半に、イギリスのプログレッシブ・ロックに興味を持ち始めた。ジョーンズの友人であったイギリスの歌手ダスティ・スプリングフィールドは当時アトランティックでの最初のアルバム、『ダスティ・イン・メンフィス』を完成させていた。彼女の推薦で、アトランティックの幹部はレッド・ツェッペリンを実際に見ることなく、契約書にサインした。その契約条件で、バンドはアルバムのリリース時期とツアー開催の決定権及び各アルバムの内容とデザインについての最終決定権を持っていた。また、それぞれのアルバムの宣伝方法と、どの曲をシングルとしてリリースかの決定権も所有した。彼らはすべての出版権を処理するために独自の会社、スーパーハイプを設立した。
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