結成:1966-1968とは? わかりやすく解説

結成:1966-1968

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 03:06 UTC 版)

レッド・ツェッペリン」の記事における「結成:1966-1968」の解説

1966年ロンドン拠点にセッションギタリストとして活動していたジミー・ペイジベーシストとしてポール・サミュエル=スミス脱退したヤードバーズ加入した程なくしてペイジクリス・ドレヤ入れ替わってギター担当することとなり、ジェフ・ベックとのツインリードラインナップ形成された。1966年10月ベック脱退し絶え間ないツアーレコーディング疲弊していたヤードバーズその活動縮小し始めたペイジ自身ベックギター担当しドラムキース・ムーンベースジョン・エントウィッスル迎えてスーパーグループ結成することを考えており、ボーカリストスティーヴ・ウィンウッドスティーヴ・マリオットをこのプロジェクト加えることも検討された。ペイジベックムーン1966年ベーシストキーボード奏者ジョン・ポール・ジョーンズ参加したセッションで「ベックス・ボレロ」を一緒に録音したが、グループ結成されなかった。 ヤードバーズ1968年7月ベッドフォードシャールートン工科大学最後ギグ行った。彼らはまだスカンジナビアいくつかのコンサートを行う予定があったため、ドラマージム・マッカーティボーカリストキース・レルフは、ペイジベーシストクリス・ドレヤヤードバーズの名前を使って活動継続することを認めたペイジとドレヤは新しラインナップをまとめ始めたリードボーカルペイジ最初選択はテリー・リードだったが、リード申し出断り、バンド・オブ・ジョイとホブストウィードルのシンガーであるロバート・プラント提案したプラント最終的にその申し出受け入れドラマーに元バンド・オブ・ジョイのジョン・ボーナム推薦したジョン・ポール・ジョーンズはドレヤが写真家になるためにプロジェクトから脱退した後、妻に勧められベーシスト空きがあるかをペイジ尋ねたペイジ自分と同じくセッションミュージシャンであったジョーンズのことを知っており、彼を最終メンバーとして参加させることに同意した1968年8月、4人はロンドンジェラード・ストリートにあるレコード店の下の部屋初め一緒に演奏したペイジは、ヤードバーズカバーしていたジョニー・バーネットのロカビリーバージョンで人気があったジャンプ・ブルース「トレイン・ケプト・ア・ローリン」演奏提案したジョーンズは「ジョン・ボーナム演奏聴くやいなや、このバンド偉大になるとわかった。僕たちは、すぐにチームとしてともにロックした」と回想している。スカンジナビア向けて出発する前にグループP・J・プロビーのアルバム『スリー・ウィーク・ヒーロー』のレコーディングセッション参加したプラントハーモニカフィーチャーした同アルバムの収録曲「Jim's Blues」は、レッド・ツェッペリン将来の4人のメンバー全員参加した最初のスタジオトラックだった。 バンド1968年9月7日デンマークグラッドサクセにあるグラッドサクセ・ティーン・クラブにおいて、オーディエンスの前で初め演奏した。このスカンジナビアンツアーでバンドは「ヤードバーズ」として告知され9月24日ノルウェーオスロツアー完了した9月後半に彼らはライブセットに基づいたファーストアルバムレコーディング開始したアルバム9日間で録音およびミックスが行われ、ペイジ費用負担したアルバム完成後にドレヤが停止通告書を送付しバンド名前の変更余儀なくされ、ペイジスカンジナビアでのコンサートにのみニュー・ヤードバーズの名称を使用することが許可されたと述べた新しバンドの名前がどのように決定したかについての一説は、ベックシングル録音のために行ったセッションで、キース・ムーンが「もしも俺たちが今いるバンド辞めたら、きっと向こうは鉛の気球lead (発音は[led]) balloon)みたいに急降下するだろうぜ」と発言したことによるとされる。「go down like a lead balloon」は「ぽしゃる」という意味の慣用句で、ムーン口癖であったという。同席していたマネージャーピーター・グラントがこの時のムーン言葉からヒント得て、([li:d]と誤って発音されるのを避けるため)「lead」から「a」を落としてled」に、「balloon」は「zeppelin」に置き換えられた。「zeppelin」は音楽ジャーナリストのキース・シャドウィックによると、ペイジの心に「重さ軽さ可燃性優雅さ完璧な組み合わせ」をもたらした言葉であるとされるグラント1968年11月アトランティック・レコードから143,000ドル前払い契約現在の価格で1,030,000ドル)を確保した当時、この種の新しバンドとして最高額契約だった。アトランティックは主にブルースソウルジャズアーティストカタログを持つレーベルだったが、1960年代後半に、イギリスプログレッシブ・ロック興味持ち始めたジョーンズ友人であったイギリス歌手ダスティ・スプリングフィールド当時アトランティックでの最初アルバム、『ダスティ・イン・メンフィス』を完成させていた。彼女の推薦で、アトランティック幹部レッド・ツェッペリン実際に見ることなく契約書サインした。その契約条件で、バンドアルバムのリリース時期ツアー開催決定権及び各アルバムの内容デザインについて最終決定権持っていた。また、それぞれのアルバム宣伝方法と、どの曲をシングルとしてリリースかの決定権所有した。彼らはすべての出版権処理するために独自の会社、スーパーハイプを設立した

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