経済の好況と破綻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/01/15 08:22 UTC 版)
「サウスカロライナ州の歴史」の記事における「経済の好況と破綻」の解説
1886年、アトランタの新聞発行者ヘンリー・W・グラディはニューヨークの聴衆に向かって、その「新しい南部」ビジョン、すなわち北部の経済をモデルにした南部について公表した。この時までに、北部に向けて輸送している綿花はサウスカロライナでも加工できるという考え方が既に何人かの事業家サウスカロライナ人の頭にあった。この考えはサウスカロライナ人にとって新しいものではなかった。1854年、チャールストン生まれのジェイムズ・ダンウッディ・ブラウンサン・デ・ボウが創設した「デ・ボウの南部と西部の市場調査」が、サウスカロライナにある3つの鉄道線、安価な原料、凍らない河川および労働力を上げて、サウスカロライナにおける製造業の可能性に投資する者に訴えかけた。 これらの利点は南北戦争後も存続した。19世紀の終わりまでに、繊維産業がサウスカロライナ中で急拡大したが、特に内陸部ではタービンを駆動する川があったので盛んになった。これは不況に陥っていた小作農経済を救った。白人にとって事態は好転していた。1902年、低地部でチャールストン博覧会が開催され、世界中からの訪問者を惹き付け、サウスカロライナが回復しつつあるという観念を印象づけることが期待された。4月9日、その母がコロンビアの学校に通っていたセオドア・ルーズベルト大統領が、会場を訪れた。ルーズベルトは北部と南部の間で今にも爆発しそうな敵意の仲直りを呼びかけた。 1914年に改革派の知事リチャード・マニングが選ばれたことで事態は好転し続けた。1900年頃にノースカロライナからもたらされた明るい葉のタバコ栽培が拡がり農業ブームをもたらした。このブームは不況で壊されたが、タバコ産業は回復し20世紀の終わり近くまで繁栄を続けた。南北戦争以前から綿花はあまり利益が上がらないにも拘わらず、州の主要農生産物で有り続けた。 1919年、ワタミゾウムシが拡がり州の綿花生産を破壊したが、これは南部全体でもそうだった。小作農や労働者は土地を離れなければならなくなった。公民権の剥奪と抑圧的人種差別、公的教育の予算不足や限られた機会と合わさり、綿花産業の破壊は黒人も白人も多くの者を北部の都市に向かわせ、より良い仕事、子供の教育、投票権の有るところでの生活を求めさせた。1910年から1940年に掛けての「大移民」にはアフリカ系アメリカ人も加わった。大移民の第2波は1970年代まで続いた。田舎の労働者であった者達がボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク、ニューヘイブンおよびハートフォードなどの都市で都市型工場労働者になった。 第二次世界大戦中およびその後の軍事基地の拡張によって、製造業に対する国内および海外からの投資があり、サウスカロライナを再度活性化させることに貢献した。
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