経済の低迷と文化の開花(1688年 - 1790年)
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「ダルムシュタットの歴史」の記事における「経済の低迷と文化の開花(1688年 - 1790年)」の解説
エルンスト・ルートヴィヒが自身で統治を開始した1688年には、外交状況は悪化していた。遺産紛争に関して脅しを受けたエルンスト・ルートヴィヒは、ルートヴィヒ2世に倣って、依然として防衛施設が脆弱なダルムシュタットを離れてギーセンへ避難した。彼は自らの領邦全域に絶対領主制を敷こうと考えた。それはダルムシュタットにとっては、市参事会にさらなる制約が課されることを意味していた。 1693年、フランス軍がダルムシュタットを攻撃し、城館のベルクフリート(主塔)や市壁の一部を担っているヴァイサー塔の一部を破壊した。エルンスト・ルートヴィヒは、まさにその場所に「ノイエ・フォアシュタット」を建設した。ダルムシュタットはやっと構造上も農民都市から宮廷都市へと変化した。 1698年に外交的な緊張が緩和すると、エルンスト・ルートヴィヒは廷臣とともにダルムシュタットに戻ってきた。それ以前から彼は都市の再建を命じていた。この時期に多くの代表的な建築物が建設された。1715年に宮廷のオフィスが火災に遭い、この機会に古い宮殿を4つの大きな翼棟を持つ新しい宮殿に建て替える計画が立てられた。しかし、資金難から1726年に2つの翼棟が完成しただけであった。 エルンスト・ルートヴィヒは多くの政治的な改革を行った。彼はユグノー派の人々を移住させ、市参事会の抵抗にもかかわらずユダヤ人に宗教行事の挙行を許可し、その上後にはシナゴーグの建設さえ許した。また、カトリック信者らにもその祭事を許した。彼は絶対君主制に啓蒙主義を吹き込んだのである。 しかし、エルンスト・ルートヴィヒが治めた領邦は廃墟に近い状況にあった。彼の晩年、金融状況は壊滅的な状態にあり、彼は鉛から金を生産させようと錬金術師を雇うことまでしている。もちろん、これはさらなるコストを産んだだけであった。1739年に彼が亡くなった時、その領邦の借金は400万グルデンに達していた。 エルンスト・ルートヴィヒの後継者ルートヴィヒ8世は都市の拡大を大部分中止させた。しかし支出は、彼の狩猟道具に向けられ、さらに増大していた。すでに先代のエルンスト・ルートヴィヒも狩りに熱中し、大金を浪費し、多くの土地を使い物にならない状態にしていた。ルートヴィヒ8世は、それをさらに拡大し、国家財政をめちゃくちゃに破壊し、さらに多くの土地を踏み荒らしていったのである。このため耕地は使い物にならない状態となり、静まりかえったのである。 ルートヴィヒ9世は1768年に方伯に即位した。彼はダルムシュタット市に厳しい支出削減を命じた。ダルムシュタットにとってルートヴィヒ9世の治世は立て直しの時期であり、政治的には重要でない時期であった。ルートヴィヒ9世は、宮廷をピルマゼンスに遷していたためである。これに対して方伯妃のカロリーネ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットは、たびたびダルムシュタットを訪れ、その文化的興隆に配慮を見せた。彼女は1771年に Kreis der Empfindsamen(繊細な人物のサークル)という文化サークルを組織したのだが、その中には若き日のゲーテも参加していた。こうしたことから彼女は Die große Landgräfin(偉大な方伯妃)という尊称を授けられている。 方伯自身は、自らの支出削減令を遵守することができず、軍事施設を次々に建設した。これによる市の財政悪化を彼は見誤ったのである。1769年に完成した練兵施設を1771年に新しい施設を建設するために解体したのだが、この建てようとしていた新しい施設はあまりに巨大で、あまりに経費がかかりすぎるものであった。 政治の上では、ルートヴィヒ9世は必要な改革に着手したといえる。市に財政的負担を強いていた兵舎を解体し、刑事事件のための拷問台を廃止し、学校制度を近代化した。
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