第20回総選挙への出馬
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1937年の総選挙時の選挙事務所風景。左から一人おいて妻の孝子・百瀬嘉郎・棚橋・林虎雄・山本初吉。 1937年3月31日、林銑十郎内閣は衆議院を解散し(いわゆる「食い逃げ解散」)、これによって総選挙が行われることとなった。棚橋は長野県第4区 から立候補することとし、選挙事務長の百瀬嘉郎(東筑摩郡連合青年団長、のち長野県翼賛壮年団本部長)を中心として、代用教員時代の教え子である和田村長の上条海次郎や波田産業組合専務理事の伊藤茂策など、県連合青年団の幹部から上条次郎(神林村助役、農革同盟長野県書記長)や所貞門(のち東筑摩郡翼賛壮年団長)など、更に社会大衆党 から林虎雄や山本初吉など、また東京から新人会の喜入虎太郎や作家の葉山嘉樹などで選挙組織を構成した。尚、棚橋は当時まだ淡路から移住したばかりであったこともあり、この選挙組織は主に林虎雄が担当していた。棚橋陣営は、第19回総選挙時にトップ当選を果たし、1936年12月に死去した中立候補の畔田明の支持者を全選挙区においてほぼ棚橋支持にすることに成功し、更に東筑摩郡においては社会大衆党長野県支部連合の青年団幹部や代用教員時代の関係者、少年時代の生い立ちの地の人々、南安曇郡においては農民・旧党の関係者の支持がそれぞれ得られたが、一方で北安曇郡での支持は伸び悩んでいた。当時の新聞で棚橋・喜入・林の三名を「三虎隊」とはやし立て、人気は良かったと林虎雄は回想している。しかし、棚橋陣営が配布していた立候補挨拶状に印刷された写真の中で棚橋が佐野学や幸徳秋水と写っている写真があり、棚橋の対抗馬であった立憲養正会の田中耕はこれを棚橋が共産主義者の証拠だとして逆宣伝した結果、棚橋の支持基盤の一つであった教育界の支持を失い、4月30日の投票の結果9,669票の次点での落選であった。但し、松本市で得票第3位、市域の村である島立村・和田村では得票第1位という善戦ぶりで注目され、この善戦に対して『信濃毎日新聞』5月2日付では社会大衆党の善戦については将来に期待がもてる、と好感をもって迎えられた。選挙落選後、棚橋陣営は買収饗応の嫌疑で5月2日正午までに15名が取調べを受けたが、林虎雄が留置関係者の釈放を求めるなどして取調べ終了後に逐次帰宅が許された。しかし、5月4日には幹部2名が松本刑務所に強制収容され、更に諏訪市の林宅に逃れていた棚橋と百瀬も逮捕され、最終的に百瀬ほか6名が公判に付されてそれぞれ禁固刑や懲金刑の判決が下されたが、文書違反程度で解決をみて、百瀬には後に執行猶予となった。 総選挙で次点となった棚橋は社会大衆党松本支部を結成して、自らの政治基盤の拡大を図った。更に11月29日から社会大衆党第6回全国大会で決定となった皇軍慰問に参加した。この皇軍慰問団は満州班・上海班・北支班に分けられており、棚橋は北支班に参加した。1938年12月11日、社会大衆党県連合大会が開催され、県連合委員長に選出された。党内で着実に中央への進出を進めていた棚橋であったが、1939年2月に社会大衆党と東方会の合同に失敗して以降、新体制運動の中心となっていった社会大衆党は1940年7月6日に解党し、更に党の中心にいた麻生も9月6日に死去したこともあって独自で選挙地盤を固めざるを得なくなった。この間、1939年6月18日に妻の孝子が胃ガンのため死去している。
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