第2次宇都宮城攻城戦
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「宇都宮城の戦い」の記事における「第2次宇都宮城攻城戦」の解説
安塚の戦いが起きた22日午後、有馬藤太、大山弥助および野津七次(後の道貫)が率いる東山道総督府救援軍(薩摩藩兵、長州藩兵、大垣藩兵)約250人が壬生城に入り、救援軍先遣隊の河田隊と共に、翌朝の宇都宮城奪還戦を決定する。23日早暁、前日の旧幕府軍勢との戦闘で全約550人の手勢の内60名近い死傷者を出し 雨中の戦闘で疲労困憊していた河田隊を残し、有馬・大山・野津が率いる先鋒が宇都宮城へ向けて進軍した。一方の旧幕府軍も前日の戦闘で極めて多くの死傷者を出しながらも、早朝から壬生道の要所要所に歩兵小隊を配し、宇都宮城下では二荒山神社に歩兵第七連隊、西の丸には伝習隊を配すなど、壬生道から攻め上がって来る新政府軍を要撃する準備を着々と整えていた。その際、旧幕府軍に呼応する会津藩兵や岩井の戦いで敗れ日光廟に向けて北上してきた歩兵隊も要撃隊に加えた。 午前9時、宇都宮滝谷(滝尾神社)に迫った新政府軍大山隊は、滝尾神社を守備する旧幕府軍に砲弾を浴びせこれを退散させた。勢いに乗った新政府軍は六道口および新町でも旧幕府軍を火器によって敗走させ、次々と宇都宮城の西側へと攻め寄せたが、逆に西の丸に陣を敷いていた城守備隊の伝習隊の猛烈な反撃に遭い、滝尾神社付近まで押し戻される。その最中、薩摩藩兵隊長の井上猪右衛門が戦死、軍幹部の野津と有馬が負傷している。兵も約30人の死傷者を出した。大鳥は後方にも軍を廻し新政府軍を包囲、後方の輜重隊から糧秣や弾薬を奪うと共に兵を撹乱した。 午後3時前、岩井の戦いに釘付けにされていた伊地知正治率いる新政府側救援軍は岩井の戦いを収め結城から急行、城南側から宇都宮城に攻め寄せた。また、壬生城を後発した河田率いる鳥取藩兵も合流して明神山を攻撃し、 激しい戦いとなった。この戦闘で松が峰門を守備していた土方歳三が足に銃弾を受けて負傷、戦線を離脱する。また新政府軍の砲兵隊が城西側の延命院および桂林寺に山砲を並べ、二荒山神社や宇都宮城を砲撃、旧幕府軍は結局戦死者だけでも110名 という多くの犠牲 を出し八幡山方面から日光山に向けて退却した。 宇都宮城を奪還した伊地知・大山らは宇都宮城内の修道館や家老屋敷を本営として宿営し、城は家老戸田三左衛門に引き渡された。5月7日(6月26日)には大津に抑留されていた藩主戸田忠友が帰還、5月19日(7月8日)には前藩主戸田忠恕も帰城し、宇都宮藩の政情は安定化した。忠恕は急な病で9日後の28日(7月17日)に22歳の若さで急逝、宇都宮藩は忠友の下で軍制改革が進み、歩兵隊は小隊11隊に再編され砲兵隊も設けられた。宇都宮城は会津戦争や北関東政情安定化のための政治・軍事拠点となり、明治期には東京鎮台(その後第1師団)第四分営(その後歩兵第2連隊)の本営が置かれることとなる。
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