第2次宇都宮城攻城戦とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 第2次宇都宮城攻城戦の意味・解説 

第2次宇都宮城攻城戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 05:23 UTC 版)

宇都宮城の戦い」の記事における「第2次宇都宮城攻城戦」の解説

安塚戦い起きた22日午後有馬藤太大山弥助および野津七次(後の道貫)が率い東山道総督府救援軍薩摩藩兵、長州藩兵、大垣藩兵)約250人が壬生城入り救援軍先遣隊河田と共に翌朝宇都宮城奪還戦を決定する23日早暁前日旧幕府軍勢との戦闘で全約550の手勢の内60名近い死傷者出し 雨中戦闘疲労困憊していた河田隊を残し有馬大山・野津が率い先鋒宇都宮城向けて進軍した一方旧幕府軍も前日戦闘極めて多く死傷者出しながらも、早朝から壬生道要所要所歩兵小隊配し宇都宮城下では二荒山神社歩兵第七連隊西の丸には伝習隊配すなど、壬生道から攻め上がって来る新政府軍要撃する準備着々と整えていた。その際旧幕府軍に呼応する会津藩兵や岩井戦いで敗れ日光廟向けて北上してきた歩兵隊要撃隊に加えた午前9時、宇都宮滝谷滝尾神社)に迫った新政府軍大山隊は、滝尾神社守備する旧幕府軍に砲弾浴びせこれを退散させた。勢い乗った新政府軍六道口および新町でも旧幕府軍を火器によって敗走させ、次々と宇都宮城西側へと攻め寄せたが、逆に西の丸に陣を敷いていた城守備隊の伝習隊猛烈な反撃遭い滝尾神社付近まで押し戻される。その最中薩摩藩兵隊長井上右衛門戦死、軍幹部野津有馬負傷している。兵も約30人死傷者出した大鳥後方にも軍を廻し新政府軍包囲後方輜重隊から糧秣弾薬を奪うと共に兵を撹乱した。 午後3時前、岩井戦い釘付けにされていた伊地知正治率い新政府救援軍岩井戦い収め結城から急行城南側から宇都宮城攻め寄せたまた、壬生城後発した河田率い鳥取藩兵も合流して明神山攻撃し激し戦いとなった。この戦闘松が峰門を守備していた土方歳三が足に銃弾受けて負傷戦線離脱する。また新政府軍砲兵隊城西側の延命院および桂林寺山砲並べ二荒山神社宇都宮城砲撃旧幕府軍は結局戦死者だけでも110名 という多く犠牲出し八幡山方面から日光山向けて退却した宇都宮城奪還した伊地知大山らは宇都宮城内の修道館家老屋敷本営として宿営し、城は家老戸田三左衛門引き渡された。5月7日6月26日)には大津抑留されていた藩主戸田忠友帰還5月19日7月8日)には前藩主戸田忠恕帰城し、宇都宮藩政情安定化した。忠恕急な病で9日後の28日7月17日)に22歳若さ急逝宇都宮藩は忠友の下で軍制改革進み歩兵隊小隊11隊に再編され砲兵隊設けられた。宇都宮城会津戦争北関東政情安定化のための政治・軍事拠点となり、明治期には東京鎮台その後第1師団第四分営その後歩兵第2連隊)の本営置かれることとなる。

※この「第2次宇都宮城攻城戦」の解説は、「宇都宮城の戦い」の解説の一部です。
「第2次宇都宮城攻城戦」を含む「宇都宮城の戦い」の記事については、「宇都宮城の戦い」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「第2次宇都宮城攻城戦」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「第2次宇都宮城攻城戦」の関連用語

第2次宇都宮城攻城戦のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



第2次宇都宮城攻城戦のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの宇都宮城の戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS