第2次奉直戦争での敗北、再起
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「呉佩孚」の記事における「第2次奉直戦争での敗北、再起」の解説
1923年(民国12年)2月4日に始まった労働組合「京漢鉄道総工会」の京漢鉄道全線ストライキに対して、呉佩孚は軍隊を出動させ、江岸では労働者が多数死傷した(「二・七事件」。中国では「二・七惨案」)。同年10月、曹錕は「賄選」により大総統となり、同時に呉は曹の後任として直魯豫巡閲使に就任している。呉自身は賄選に不満を抱いていたが、結局のところ曹との決裂には至らずに終わる。他方で呉は、洛陽を中心として独自の勢力圏確立を図り、英米両国から借款を受けて軍の強化を進めた。この頃、日本からも岡野増次郎が呉の顧問として起用されている。 1924年(民国13年)9月、軍事改革により自軍の精鋭化を果たした張作霖が、再び直隷派に挑戦する。呉佩孚は曹錕の要請に応じて北京に急行、討逆軍総司令として山海関で奉天派軍を迎撃した(第2次奉直戦争)。しかし直隷派の第3軍総司令馮玉祥が北京で兵変を敢行(北京政変)、曹を逮捕・拘禁して北京を掌握してしまう。前後から挟み撃ちされることになった呉は敢え無く敗走、湖北督軍蕭耀南の下へ逃れた。ところが蕭も呉を庇護しようとはせず、逆に呉へ下野を婉曲に促す有り様であった。追い込まれた呉は1925年(民国14年)春に下野を宣言、湖南督軍趙恒惕の庇護を受けている。 1925年(民国14年)10月、孫伝芳が反奉天派戦争を発動した機に乗じ、呉佩孚も武漢の蕭耀南に迎え入れられる形で「十四省討賊聯軍総司令」を自称、再起を果たした。
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